(細川ガラシャ ~その1~宮津城)
イエズス会宣教師 ルイス・フロイスの日本史によれば、宮津城での細川ガラシャにつ
「繊細な才能と天稟の才による知識において超人的であったので、
と、記されていた。
※1「宣教師フロイスが記した明智光秀と細川ガラシャ」 守部喜雅著 いのちのことば社 より引用。
宮津市 大手川の畔 細川ガラシャ夫人像
天正6年(1578年)、明智光秀の二女(三女との説あり)たま
この時の居城、勝竜寺城は現在の長岡京市にあり、ここで長女”長
天正8年(1580年)、足利義昭につく丹後守護一色氏と対峙す
フロイスの記録によれば、この頃の細川藤孝は以下の様子であった
「彼(藤孝)は、すでに老境に入った現在、妻や嫁とともに丹後の
そのため彼は三学をおこなっていたが、良心の呵責を消していくた
嫁である"たま”も毎日のように寺に詣でて禅の修行をしていた。
そして、経典も理解も公案(禅問答)でも僧侶以上であったとのこ
ただ、フロイスの記録によれば、
「彼女(たま)が会得したことは、彼女をして精神をまったく落ち
それどころか、彼女に生じた躊躇や疑問は後を絶たなかったので、
とある。後にたまはキリスト教と接触するのですが、禅宗との違い
宮津市 宮津城石垣(復元)
”知識”が超人的であった記されたように、禅以外にも多くの教養
細川藤孝自身、知識人、歌人であり、京にいた知識人を多く招聘し
また、たまの侍女清原いと(後にマリア)は、儒学者清原枝賢の娘
知識を吸収環境は十分にあったと考えられる。
たまにとって、18才の時来た宮津城とは、名門私立 細川大学 宮津キャンパス 教養学部 宗教専攻 なのかもしれません。
そして、あっという間に卒業して教授にまでなってしまいました。
しかし、2人の子供がいるとはいえ、まだ若い女性に宗教学教授は
細川藤孝が禅ばかり入り込まず、たまに違う世界を学ばせてあげれ
宮津市 宮津城 敷石と壁石
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、この明智たま役を芦田愛菜
芦田愛菜さんは天才子役だけでなく、名門慶応義塾中等部に在籍し
年齢からいっても、宮津城時代の細川ガラシャ(たま)のはまり役
芦田愛菜さんは、このドラマの出演後、女優業をしばらく休止され
私は大賛成です。細川ガラシャ(たま)のように若くして人間の心
その後、心のことも探求して、いい女優さん、いや超人的女優にな
細川ガラシャ(たま)も今の時代に生きて、スーパーレディとして
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