ブログから久しく遠ざかってました。いろいろ理由はありますが、その一つはAIを使い始めたからだと思います。AIは生活を変えたんじゃないかと思うし、精神的にも変化があるように思います。

 

以前なら、その答えの途方の無さ(検索の多さ、問題の大きさや無限性)に問うことさえ思いつかなかったことを今では次々に問いかけています。政治、経済、社会、戦争、哲学、芸術、、、、。しかも、日常の食、健康、栽培など、あらゆることを問いかけます。一時間に数回は問いかけていると思います。

 

例えば。先日店で食べた「桃のピザ」が極上で、今まで食べたすべてのものの中で最も美味かったと言っても過言でないほどでした。それを家に帰ってからAIに問いかけながら、レシピを作り、自分のアレンジも交えて作ってみました。そうしたら、レストランで食べたもの以上に美味かった。

 

また、この暑さの中で、芽が出たばかりの作物や挿し木に自動で水をやる方法はないか?無論、そういう電動式の道具もあるでしょう。しかし、金をかけずにできないか?長期に留守にするので、どうしても必要でした。それで、AIが教えてくれたのが、毛細管現象。学校で教わったかもしれませんが、AIが無ければ、思いつかなかったこと。そこから、たこ糸、毛糸など素材選び。水の量と時間の関係。色々実験して、簡単な装置を作りました。結果、無事に育ってました。

 

こうして四苦八苦していると、AIは先生なのです。何でも、どんな教科でも、どんな難しい問題でも、どんな年齢にも、わかりやすく教えてくれます。

 

本来、学校や教師というのはこういう存在だったのではないか。子どもの知らないことを何でも教えてくれる物知りのスーパースター!しかし、現実の教師は狭い範囲の勉強を押し付ける、しかも教え方にはウマヘタがある。これじゃ、教師はAIには敵いません。多分、近い将来は学校はあってもなくてもいい存在になるでしょう。

 

もし、存在するとしても、学校は単に人が集う場所。クラブ活動みたいに、自分の最も好きなことをするために、同じ趣味感覚好みの合う人だけのグループに分かれて、好きなことを好きなだけやる。教師は単にまとめ役。子どもたちはストレスが無いので、いじめ問題も無くなる可能性もある。また仮にいじめられてもすぐに帰る、あるいは学校を拒否すればいい。つまり、強制も義務もない学校。

 

大人は「何か縛り付けないとロクな人間にならない」と思っているかもしれませんが、自由で自ら自主規制するような主体的人間になったほうが、今よりはマシ。

 

AIをどのように教育に利用するか?などと問題視してますが、教える側の大部分の教師がまだAIを使いこなせていないでしょう。知らない人間が教えるのは馬鹿げています。パソコン、携帯、スマホ、、、全てそうですが、子どもの方がずっと早くにそれに慣れるし、可能性もよくわかっている。教える側にさえなれる。AIも同様に、任せるしかないのではないか。「可愛い子には旅をさせろ」と同様に、AIの大海に漕ぎ出すしかないように思います。

 

ただし、問題はAIは人間ではないこと。感情を持たないことを認識すること。中にはAIに感情移入する人がいます。私自身はそういう人を見て唖然としますが、どうもAIに依存して騙されやすい人とそうでない人といるようです。しかし、AIに騙される人は人にも騙されやすいのではないかと思います。冷静さと、客観的判断力を持つ、あるいはそれを養いつつAIを使わないと、AI主導になる可能性があります。

 

AIが感情を持たないという点で問題なのは、それに関わる活動、仕事、職業に関することです。例えば、医療分野でAIに診察させて患者にAIが結果を知らせる場合に「診察の結果、膵臓癌の最終段階なので、ホスピスに入るのがいいでしょう」なんて、簡単に答えたら患者はショックでしょう。

 

私が高校生の時に医師が「検査の結果、慢性腎炎になり、もう直る見込みがないので、退院していいです」と言われた時のショックは今でも忘れません。その時に暗い未来、あるいは身近に迫る死を想像して、こちらはゾウっとしているわけですが、そういう感情はお構いなし。つまり、人間にもこういう人はいるわけですが、AIは全てがこういう風なのです。無論、「悲しいお知らせです」くらいのことを言うでしょうけど、それが機械が発しているんだということくらいは気づくでしょう。

 

裁判も同様です。冷静に判断しているでしょうけど、最終的には裁判官の感情も入るからこそ、人間社会なのであって、これをAIが全てやってしまうと人間の方から不満が出るでしょう。

 

つまり、何に使うか、どのレベルまで使うかが問題です。

 

その典型が戦争です。AIを使うということは「いかに効率的に人が殺せるか」ということです。無論全ての武器はそういう意図で作られていますが、それが加速するし、何十倍も何百倍も早くに結論を出し、早くに多くを殺すでしょう。しかも、最近はドローンが出てきたので、戦場は不必要になりました。つまり、現場の兵士もいらない、あるいは減少するでしょう。その代わり、一般市民が殺される頻度が増すと思います。非常に危険な状況になると思います。なので、世界中の一般庶民は猛反対すべきです。

 

しかし、結局AIに限らず全ての道具は諸刃の剣です。道具に問題があるということではなく、人間の方に問題があるのです。本当の知性のある人間は、争いに言葉を用いますが、知性のない人間は武器を使う。最近は武器を使う知性のない政治家が増えています。一般庶民に本物の知性が必要な時です。流されていると、自業自得になります。

 

 

高校生の頃に体育の時間はサッカーでした。体育というより、カラダ休めの時間という意識(生徒教師ともに)だったのか、教師は時間の最初だけ顔を出して、あとは生徒任せ。生徒は二組に分かれてサッカーの試合をしていました。

 

なので、ルールも厳しくなくて、ポジションもいい加減。ただただ、みんなでボールを追いかけ回すような小学生のような試合。いや、今の小学生の方がずっと上手いかもしれません。ずっと追っかけていると疲れるので、最後には自分のところに来たボールを蹴るだけでした。

 

すると、ほとんどボールに触らないーただ、立ってるだけ!それでは面白くありません。それで、ある時もっと積極的に関わろうと思いました。それには、ボールが必ず来るゴール前にいればいい!今考えると、常にオフサイドの位置にいたわけですが、誰も気にしないほどいい加減だったのでしょう。

 

すると、いきなりボールが来るわけです。来た来たと思って、ボールへ近づきます。味方がボールをゴールへ蹴ります。間近にいたキーパーが蹴り返します。その瞬間でした。すごい、衝撃が襲いました。

 

キーパーの蹴り返したボールが僕の顔面を襲ったのです。ゴール間近にいた人間が蹴ったボールをキーパーが蹴り返し、それが1mしか離れていない人間に当たるー蹴ったボールより、蹴り返した方が反発する分だけ強烈な強さになります。突然の衝撃と、衝撃直後の目の前にいたキーパーの姿だけが記憶の中に残りました。

 

何十年も記憶に残るほどの、あの衝撃の強さはどれほどだったのか?AIにあの時の衝撃力を計算してもらいました。それによりますと、普通の高校生の蹴るサッカーボールの速度、それをキーパーが弾き返す速度を1m・1mという近距離で計算すると、時速120キロから160キロにもなるのです。時間は 0.064秒。

 

実際の速度がどうだったかはわかりませんが、想像以上にすごいスピードだったのだとわかりました。その後、どうしたか?二度とボールに近づくことはありませんでした。サッカー=恐怖 の記憶は、サッカー=観戦 に変わりました。

 

ちなみに、ペナルティーキックの場合(11m)、弾き返される速度は高校生サッカー部で160キロ。プロなら200キロ以上。人類最速の場合、300キロ。

 

人類最速というのは、人類史上最も早いキックだった場合の想定です。人類史上最も早いキックはあまり知るものはいませんが、ギネスによれば2006年にポルトガルリーグの試合で、ブラジル人選手ロニー・ヘベルソンが放ったフリーキックは時速211キロだったそうです。

 

ロニー・へべルソンは最後です。

 

 

 

野球ボールでさえ、せいぜい160キロ程度なのに、200キロも超えるのかと思いますが、足の筋肉の強さ、ボールの反発力など計算すれば、条件次第で可能だそうです。

 

ところで、ペナルティーキックはサッカーの試合の中でも最も興味深いシーンです。PKは両者に公平なものではなく、キッカー有利です。スローモーションで撮影して一コマずつ見るとゴールキーパーはキッカーが蹴るよりも先に動いています。

 

 

 

これは今回のスイスーコロンビア戦のPK戦の一場面です。どちらも蹴る前にキーパーの足の膝が曲がってます。(10回のPKの全てが同じー先に動くーでした)キーパーは曲がった足の方へ移動します。これが確認できれば、キッカーは逆へ蹴ればゴールします。しかも、超高速ボールの必要はありません。最低で時速30ー40キロで間に合います。これは、小学1、2年生並みの力で蹴る速度です。だから、楽勝のはずなんです。これを熟知しているのは遠藤選手です。

 

 

それなら、なぜみんなそうしないのか?

 
 

PK戦は普通に戦っている以上にすごい緊張状態で、成功率が高いだけに失敗した時の怖さがあるので、普通ではいられない。冷静な判断力が欠ける。それで、力一杯蹴るという緊張状態を逃れるかのような豪速のキックをする選手が多いのでしょう。ゴールの広さは約7m×2.5mほどです。子どもでも簡単にゴールできるのに、外へ蹴ってしまう一流プロがいるのは、その緊張ゆえでしょう。

 

PK戦になるのは、通常は20から30試合に一回(3から5%)ですが、決勝トーナメント(ノックアウトステージ)では、同点試合が多いのか5試合に一回、つまり20%になります。なので、練習していても良さそうなものですが、あまりやらないようです。それより通常の試合で起こるであろうプレーを想定して練習することのほうが多いようです。

 

前述の遠藤はゴールキーパーの動きを見てから蹴る練習を常日頃していたようです。しかし、これは簡単なようでいて難しく、キーパーの動きを見てから蹴るまでの時間は、0.1秒から0.2秒です。また、蹴る方は動きを止めてはいけないルールがあるので、「動きつつ観察しつつ判断して決断して蹴る」がスムーズに行われないと失敗します。

 

ただし、ゴールキーパーも事前に動かない場合もあります。その場合は、あらかじめ決めていた方向に力一杯蹴る。しかし、ゆっくり蹴る姿勢に入っているので、突然スピードのあるボールを蹴るのも結構難しいらしいです。

 

PK戦の成功率は平均80%です。ただし、決着がつかない場合のPK戦になると緊張と責任の重さからか、73から75%に落ちます。

 

キッカー・ゴールキーパー双方に公平にやろうと思えば、今の11mという距離を15、16mにする必要があります。ただし、成功率が低いと見る方には面白みがないので、現状を維持しているみたいです。

 

今回のWCでは、ペナルティーキックに関する記録が生まれました。記録者はメッシです。彼はオーストリア戦と、エジプト戦にペナルティキックの機会を得ました。しかし、2回とも失敗しました。これはW杯史上初めての不名誉な記録だそうです。メッシはサッカーの選手としては歴史的な名選手ですが、ペナルティキックに関しては成功率80%の平凡な選手なのです。ワールドカップだけに関してならば、成功率50%(8回中4回失敗)です。なので、ペナルティキックだけは通常のサッカーの能力とは異なるものがあるということでしょう。

 

ちなみに、今回の主な選手の中で成功率が高いのはイングランドのハリーケインとスペインのヤマルが90%。(遠藤も90%)ロナウドもハーランドもエムバペも80%台です。

 

日本選手でペナルティキックを苦手にしており、自ら進んで蹴ることがない選手は意外なことに久保です。16歳の頃の話ですが、ペナルティーキックを蹴りたい順に並ぶときに、GKの後ろーつまり11番目の最後に並んだというエピソードがあるそうです。

 

さて、決勝はどうなるか?2-2の同点で、PK戦で3-2でアルゼンチンの勝利。

 

アルゼンチンに負けたイングランドのキーパーがペナルティキックのカンニングペーパーを持っていたという興味深い記事は以下

 

 

 

ブラジルに負けたことは残念ですが、試合を見ていて「?」のことがありました。日本人のサポーターがあまりに少なかったことです。日本にもサッカーに熱狂的な人がいるはずなのに、なぜゴール後ろの一角にしかいないのか。他の席はほとんど黄色一色で、9:1くらいで完全にアウエイ状態でした。(下の写真の向こう側の真ん中辺りだけ、若干青いところが日本人サポーター)

国内でも毎日テレビで中継しているし、夢中になっている人は多いはずだから、アメリカに行く人も多いだろうし、競技場の半分、せめて三分の一くらいは日本人がいてもいいのに、と思いました。

 

地理的にはブラジルの方がアメリカに近いですが、旅費など調べるとそれほど差がありません。そういうことでも無さそうです。それで、調べてみました。

 

答えはAIなので、100%正解かどうかはわかりません。

 

その前に、調べるうちに別のこともわかりました。サポーターの応援は効果があるかないか?大方「ある」と答えるでしょうけど、それがコロナ禍で証明されたそうです。つまり、当時、無観客状態での競技が多かったのですが、ホームでの勝利が少なくなったそうです。ホームでやっても、客がいない場合は客がいる場合に比較して勝てない可能性が高くなる。なので、ブラジルが強いのはサポーターのお陰と言えなくもないのです。

 

さて、観客動員数ですが、ブラジルはサッカーの盛んなところです。それで世界中に散らばっているブラジル人はその国で試合があれば、足を運ぶ可能性が高い。アメリカにも、200万人くらいのブラジル関係者がいて待ち構えていたわけです。無論日本人もいますが、50万とか100万程度。その数でまず負けている。しかし、ブラジルが負けたノルウエーですが、この試合でも圧倒的にブラジル人客が多いですが、ノルウエーからの移民関係者は400万ー500万くらいはいて、アメリカ在住は多いはずなんです。

 

とにかく、ブラジルチームはどの国とやっても、サッカーの競技場の観客数ではブラジルが圧倒する。何故か?

 

どうも、ブラジル人は企業も協力して、切符を買い占めたりするらしいです。また、仲間同士もあるでしょうけど、みんなで協力して切符を独り占めするみたいです。とにかく、サッカーに関してなら、何がなんでも協力する、応援する。

 

しかし、です。今回のチケットは高かったのです。普通に買えば、数千円から1万円程度でしょうけど、変動相場制(売れるなら高くする)みたいなことを採用したために、高騰したのです。

 

ダフ屋ってありますが、これが今回は大活躍。大量に買い込んで、何倍、何十倍にしたのです。しかし、その値段は対戦の状況次第であり、今回のブラジルー日本戦はグループリーグの中でもその高騰ぶりは上位で、30万円以上にもなりました。(ブラジル人なら無論ですが、金持ちの日本人もきっと買うに違いないと思われたのでしょうか)ところが、意外にことに、熱狂的日本人サポーターも、ブラジル人も手を出す人は少なかったようです。

 

それでダフ屋は困った!そこで、当日朝に値下げしました。10万円台になったのです。それで、ブラジル人は一斉に購入したというわけです。そういう事情を日本人サポーターが知っていたかどうか?まあ、世界中で熱狂的に応援しているブラジル人なので、常日頃のチケットの高騰も、当日下落することも承知(ブラジル人社会国際的共通理解)しているのでしょう。

 

10万円だとしても、日本人にとっても高いです。ブラジル人の年収は日本人の3割です。日本人以上に高く感じるはずです。それでも購入する。それくらい熱狂的なんですが、その後の支払いは分割払いだったりするそうです。リオのカーニバルと一緒で人生を賭けているみたいなことを言いますが、ブラジル人の国民性でしょうかね。すごいです。

 

さらに付け加えると、ブラジルには10代の若者が3000万人いて、そのうちの男性が1500万人として、そのほとんどがサッカーをする。日本の場合は1000万人で、男性は500万として、そのうちの10%くらいがサッカーをするので50万人とします。1500万:50万人。この差も、選手の力量の差になると思います。

 

女性も同じように、日本人のサッカー少女割合より、ブラジルが圧倒的に多いです。でも、日本人女性は優勝したので、かなり効率はいいと思います。しかし、サッカー熱には勝てない!

 

ところで、ダフ屋ですが、これは日本では違法です。ところが、世界中でやってます。特に今回はFIFA自体が、儲ける仕組みを作っていたようで、ダフ屋が売ると、その儲け分の何割かがFIFAにも入るような仕組みだったようです。さらに、転売が繰り返される度にFIFAも儲かる。FIFA自体がダフ屋の親分みたいな。笑

 

ちなみに、FIFA公式転売サイトでの最高出品額 

一席が18億4千万円ー決勝戦最上位カテゴリー

しかし、イーロンマスクなら、軽く買える!55万枚も!

 

これはアメリカ的です。儲かれば、いいじゃないか、ということです。資本主義経済の中では当たり前のことかもしれません。それではなぜ日本では、それが禁じられているのか?

 

金持ちだけが得する社会。ダフ屋の裏社会とのつながり。

 

こういうことを拒否しているのだと思います。みんな平等で、毒を消す社会。いい社会じゃないですか。この点に関して、本当に日本を見直しました。

 

スポーツ観戦もそうですが、音楽関係も同じことが起こります。そうすると、一部の人間に有利に働き、本当のファンは泣き寝入りすることになります。アーティストにとっても残念なことです。そういう配慮もあって、チケット購入や入場制限には本人確認のかなり厳しい規制があるようです。

 

この問題は株売買にも同じことが言えて、今現在「世界は欲望のままに動いている」というのが現状です。株売買は世界共通のルールで行われていますが、もし、日本人に株売買のルールを作らせたら、こんな乱高下するような株社会にはならないと思います。

 

日本の特殊性がチケット購入に中にあるのは意外でしたし、世界に逆行するようなことをしているのも意外でした。金を儲けようとするばかりではないところが、日本社会にはある。

優勝するより価値があることです。

 

 

サッカーではオランダと引き分けましたが、日本がまだまだとても真似できないことがあります。三大合法制度です。

 

つまり、オランダでは安楽死、大麻、売春が合法です。他にも、ドイツ、ベルギー、ルクセンブルク、カナダも同様ですが、最も早かったのはオランダです。ちなみに、大麻の合法化が最も早い国は、ワールドカップ強豪国のウルグアイです。

 

また、オランダは死刑制度が廃止されていますが、ヨーロッパ全体で見ても、死刑制度があるのはベラルーシだけです。

 

どうして、これらが日本とは真反対なのか?

 

しかし、これらの中の一部は日本ではゆるいです。つまり、ソープという売春風呂屋があり、また場合によっては親族の意思により医師が安楽死させる場合があります。つまり、ダブルスタンダード=二重基準がある、ということが日本の一面です。

 

それと、最も大きな理由は死、性、嗜好品に関しては、「個人の自由」であり、国が介入すべきではないという思想があると思います。

 

安楽死にしても、死刑にしても、「個人の生死」は他人が決めることではない。

 

誰と、どんなセックスをしても個人の自由である。

 

何を食べようが、飲もうが、吸おうが、個人の自由である。

 

はっきり言えば、こういうことであり、個人の自由が優先されている感じがします。無論、

個人の自由は個人の責任で行う。日本の場合は、自由がない分、責任も無い、軽い。ゆえに個の強さが弱い。

 

日本人の場合は何でも「お上」が決めて、それに従うのが庶民という意識が、いつ頃からなのか、わかりませんが、あるようです。「俺の自由」という感覚が無くて、「みんなと一緒」の感覚が強い。それが日本人の好みなのか、そうさせられたのかは分かりません。おせっかいと言えば、おせっかい。干渉し過ぎ。

 

教育の面から考えると、従順さを子どもの頃から、学校で教わるので、それが身についてしまっているのかもしれません。校則を守るのが日本人、校則とは何かを考えるのが他国。

 

不登校は「学校とは何か?」「教育とは何か?」ということを考えさせたという点において、一歩進んだ日本人と言えます。

 

今回のW杯の日本選手は、命令されてやるというより、個で考えてやるようになったのが強くなった要因のようです。やはり、欧州で戦う選手が増えたせいなのか。しかし次戦、ブラジル戦は2−1で負けかなあ。今までは遠藤、南野、三苫、久保がいなくても、勝てるレベル。しかし、今後はいないことが致命傷になるのではないかと。

 

 

13日目に無事羽化して飛んで行きました。

 

 

ワールドカップ。今日はグループリーグ二戦目、チェニジア戦です。私の予想は2−0で勝利。チェニジアは本来堅守速攻チームが、直前に攻撃的なチームに変更した(監督が)ことがスエーデン戦敗退の原因ではないかというネット情報を見ましたが、それが本当なら再度守りのチームになるはずなので、点を取るのが難しいとしても、多分2点は取れる。

 

オランダ戦は2−2で勝ちました。2−1、1−0で負けると思ってました。なぜなら、主力3人が欠けたことで、戦力が20%くらいは落ちるだろうと。しかし、高いチーム力はあったし、残りの選手の能力も高かった。残りの2戦は勝利しても、あとは難しい。良くて、8強。

 

しかし、相撲で言えば、やっと三役か前頭の上くらいまでのレベルなので、横綱、大関には勝てない。フランス、アルゼンチン、ブラジルは圧倒するような力があるけれど、日本にはそれがない。ただし、前頭の優勝も時々あるので、前頭が優勝する程度の可能性が残っている。

 

2−2と引き分けたオランダ。オランダ選手を見ながら、20年以上前のことを思い出しました。アムス在住のカナダ人の友人がオランダのアムステルダムのギャラリーで展覧会をしないかと誘ってきたので、やることにしました。当時はパリにいたので、作品を持ってバスで乗り込みました。

 

荷物の上に置いていた上着をちょっと目を離したすきに盗まれたり、バスの中で大音響でラジオを聴く若者と揉めたり、色々あってやっとアムス着。

 

作品は融解していく作品を2、3時間かけて、床に座って飲み食いしつつ鑑賞するものでした。20、30人くらいの客が定刻に来てくれて始まりました。単に見るだけでなく、会話やコミュニケーションも作品の一部(回数を重ねるほどにそうなっていった)なので、その場で初めて会った人同士で芸術とは無関係な話も含めて様々な議論が交わされます。いつも盛り上がる展覧会なのですが、様々な国から移住者の多いオランダ・アムステルダムはまた特別でした。

 

なぜなら、一つの言語では成り立たなかったからです。英語はどこでも通用すると思ったら、そうでもなくて、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語の他、東欧の言葉など10カ国後くらいの言葉が行き交いました。

 

複数語がわかる人がいて、英語とフランス語のわかる人は英語で話された言葉をフランス語に訳し、フランス語とイタリア語のわかる人はそれをイタリア語に訳し、、、みたいにお互いが助け合いの場にもなり、さまざまな言語がこっちでもあっちでも響き渡ったのです。非常にエキサイティングでした。多様性そのものですが、最後には親しみが深まり、参加者はいつまでも去り難い場になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月初め、今年もレモンの木にアゲハチョウの幼虫がいました。二匹見つけ、家の中で飼い始めました。

 

翌日行くと、また二匹見つけました。しかし、よく見ると葉の食べ方が行儀良く、食い散らすかすというわけではなく、一枚一枚丁寧に食べているので、そのままにしておきました。

 

 

家の中の幼虫は二、三日で蛹になりました。そろそろ羽化する頃です。

人口的に見て、農業、林業などをする人は少なくなり、ほとんどが都会のオフィスなどで仕事をすることになる。ほとんど自然の無い世界にいる。そういう人にとっては、自然は郊外や田舎、あるいは観光地の国立公園に行くことで接する機会があるかもしれない。どちらかと言えば、自然とは見るものになっているような気がする。

 

私はアーティストで、オフィスなんかで働いたことはないが、こういう職業であっても自然は見るもの、触れるもの、五感で感じるもの、という感じがしていた。たまに行く田舎はいいなあ、空気も綺麗だなあ、、、という感じ。それが自然だと思っていた。

 

しかし、実際に栽培(米、小麦、野菜、自然薯など栽培)をしてみると違う自然世界が展開する。ただし、無農薬、無肥料でやる場合である。そうなると、科学の力でなく、自然界の力と自分の知恵で勝負することになる。そうなればなるほど、自然界のことがわからないとできない。

 

最終的には、自然界はそのままで完結していることに気づく。それに気づいたのは、ある日「柿」のことを考えた時だった。田舎(島根県)では柿はどこにでもあり、山の中にもあったりする。柿の季節に「お裾分けです」と人の家に持って行くと「要らない」と言われる。それくらい、どの家にもあって豊作であることが多い。

 

どうして柿は何もしないのに、豊作なのか?それは、自分の葉が枯葉になり土になる。周辺の雑草も枯れて土になる。それらが全て栄養になって、翌年の柿の実を成らせるのだ。簡単なことだった。

 

そういう風に捉えると、全てがそうなのだ。稲も、ワラとヌカを肥料にすれば、わざわざ化学肥料などを入れる必要はない。それでも化学肥料の田んぼの7、8割くらいの収量にはなる。

 

化学肥料も使わず、農薬も使わない米は費用もかからず、売値は1.5倍から2倍もするので、収益も農薬米よりも上がる。ただし、草取りなどで苦労することはあるが、若いうちなら一種のスポーツみたいなものだ。農業がいいのは、働きながら体を鍛えることができることでもある。

 

そういう風に、自然界の摂理を利用すればこれほど効率が良いことはないが、そういう摂理を遮断してしまうのが、人間の仕業なのだ。農薬や化学肥料を入れれば、土は変質する。自然の土とは違ってくる。自然界を破壊していることになる。それが、年々深刻な状況になっているようだ。

 

人間は「収量を上げたい、儲けたい」という一心で、人間の知恵(科学力)でやったことが、結果的に最悪の結果を招くかもしれない。自然界を研究し尽くした上での行為ではなかった。人間の欲に支配されたやり方をしたので、今後はそのしっぺ返しが始まるかもしれない。

 

私は数年、コメ作りをしてそんな風に思ったのである。それで、結局人間は人間のことだけを考えて、勝手に振る舞うと、そこには必ず自然界というものがあり、それをいじることになる。それは動植物に影響を与え、人間自らにも返ってくる。

 

他者のことを考えて生きないと、結局我が身も危うくなるということなのである。そういう風に考えていくと、どうしても利他主義でなければ、生きていけないことになる。

 

最近は熊が出て来て騒動になっている。これも同じことである。彼らの領分に人間が入り込んだのだ。彼らのことも考えるならば、殺すよりも、杉林をやめてどんぐりの木などをたくさん植えてやることだ。人間は杉の木で儲けてやろうと元々あった広葉樹を杉に変え、米と同じことを考えた結果が、人が食べられることにまで発展したのである。人間の欲により、人間は食べられる。因果応報である。

 

しかし、報道は熊から被害ばかりで、問題の本質(人間からの被害)には迫らない。マスコミの責任も大きい。私の知り合いで、熊のために8千本の栗の木を植えた人がいた。そういう人も日本人の中にはいるから、日本人も捨てたものではないが。

 

日本全国民に体験してもらいたい。オフィスから出て、無農薬、無肥料栽培を。自然の成り立ちと人間の悪業を知るために。

 

 

 

「国境なき医師団」という組織があります。戦争をしているところへ行き、どちらの側にも医療を施すという画期的なものです。戦争になると、今回の如く世界各国がアメリカ側か、イラン側かになり、あるいは板挟みになったり、難しい問題になります。

 

しかし、そういうものは乗り越えて「主義主張はともかく、死にそうな人を助けましょう」という、人間に立ち返った行為です。今現在も、ガザにも、イランにも支援に行っています。

 

最初に「国境なき医師団」という名称を聞いたときに「すごい組織があるもんだなあ」と驚きましたが、それがどこで生まれたかを知った時、納得しました。

 

それは、フランスでした。他にもオリンピックもユネスコもその設立にフランス人が大いに関わっています。その他にも、世のため、人のための大小様々なフランス発の組織があるはずです。

 

なぜ、そういうものがフランス発なのか?

 

それは教育にあります。私はフランスで美術教育を受けました。日本の美術教育と決定的に異なったことがありました。

 

先生たちは学生に度々問いかけました。「何故?」と。

 

つまり

 

なぜ、この作品を作ったのか?

この作品の意図は何か?

なぜ、この色なのか?

なぜ、この構図なのか?

なぜ、以前とは違う表現なのか?

なぜ、絵を描いているのか?

 

ありとあらゆる「なぜ」があるのです。日本の美術教育にはほとんどありえないことです。日本では作品が良ければいいのです。

 

義務教育はどうか?

 

例えば、フランスの小学校ではこういうことを問います。

 

「自由とは?」

「正しいこととは?」

「なぜ、勉強するのか?」

 

中学生になると、学校の予算の使い道、学校のルールを生徒が提案、投票し、校長に提言する。つまり、学校運営の正式な構成員としての参画権があり、学校理事会に生徒代表が参加します。生徒会は「市民になるための実践」なのです。

 

さらに、バカロレア(高校卒業試験)の問題は以下のような問いを4時間かけて筆記回答します。

 

例えば

 

  • 「科学は私たちの真実への欲求を満たすことができるか?」
  • 「国家は私たちに対して何か義務を負っているか?」
  • 「議論することは、暴力を放棄することか?」
  • 「私たちは未来に対して責任があるか?」
  • 「時間は逃れることが可能か?」
  • 「文化は我々をより人間的にするか?」
  • 「幸福は手が届かない夢か?」 
 

これらに答えられる高校生は日本にどれほどいるでしょうか?

 

つまり、フランスは哲学が重視され、「人間とは何か?」というところから全ては始まるのです。

 

「人間とは何か」という深い問題を考えずに、教育をしている国が他にもあります。アメリカです。アメリカはとにかく実益、実利主義。その典型がトランプです。それに賛同するアメリカ人。

 

ちなみに、フランスのマクロン大統領はトランプ大統領に対して「アメリカ第一主義や関税政策、イラン攻撃などの一方的で無軌道な手法を支離滅裂と批判し、真剣さを欠く」と厳しく非難しています。

 

日本は「人間」に立ち返って、教育をし直さないとアメリカのようになってしまいます。しかし、フランスは全てがいいわけでもありません。昔、植民地を持っていたせいで、その植民地から大勢のアフリカ人がやってきて差別問題など、色々な問題が起こっています。しかし、植民地とは何だったのか?土地とは何か?欲望とは何か?資源とは何か?誰のものか?など、さまざまな諸問題を問いかけているのもフランス人ならではです。そういう姿勢を学んでほしいのです。

 

しかし、一方で不登校児童は、それにいち早く取り組んでいると言えます。つまり

 

学校とは何か?

教育とは何か?

教師とは何か?

 

悶々としつつも、そんなことも考える日々を自ら送っているということです。それゆえに、

彼らは思考する稀な日本人に成長するだろうと期待します。

 

 

 

今回、ホルムズ海峡がどこにあるかを世界中が知ることになったエネルギー問題です。ホルムズ海峡がダメなら他の海峡から、中東がダメならアメリカから、そんな風に右往左往しています。省エネというやり方もあります。しかし、根本的な問題は他の国に依存せざるを得ないことです。

 

福島原発事故の際に、風力とか太陽光とか他のエネルギーも話題になりました。ただし、それで100%補えるかといえば、そこまではいきません。しかし、一つだけ100%可能なものがあります。地熱発電です。当時「そうだ、そうだ、日本にはいっぱい温泉があった!」と日本中が喜んだかもしれません。しかし、地熱発電が進んだ話を一向に聞きません。どうなったのでしょう?

 

問題が二つありました。一つは国立公園の中にある場合にいろいろ規制があって、話が進まない。もう一つは、温泉業界が困る。

 

そんなことで?と思いませんか。日本政府はこれまで、鉄道や道路、建物をどれほど国立公園内に作ってきたか?一体、どんな規制があったのかと思うほど、荒らしてきた過去があります。やる気になれば、そんな問題など度外視するのが日本政府のはずです。

 

温泉業界が困る。かつて、水力を産むダムを作るために、どれだけ多くの集落を潰してきたでしょうか。約3000のダムに対して、1000ヶ所近くの集落が水没しました。その気になれば、どんなに国民が困ろうと、実行する政府です。それをここに来て、温泉業界に優しい政府?

 

地熱発電にはいくつかのやり方があり、その一つは温泉業界にも迷惑のかからない方法もあります。しかし、その方法を用いても多分日本全体の10%程度のエネルギー量でしょう。しかし、100%補える方法(超臨界地熱発電)もあり、それは技術がまだ伴っていないので、実現できませんが、もし仮に原発にかけたほどの金と人を投入すれば、実現の可能性はずっと高くなります。しかし、そこまでお金をかけていない。

 

地熱発電を利用している土湯温泉

 

日本も、日本人も一変する大変なエネルギー革命なのに!

あれほど、原子力発電に情熱があった政府なのに、地熱発電には熱くない!

 

最近、また原発の再稼働があちこちで始まりました。

「原発しかない」のではありません。「原発がしたい」んです。あの頃よく耳にした有名な村ー原子力村。あの村はいまだに存在しているようです。

 

そもそも原発自体がアメリカから来たもので、アメリカ主導なのです。「新しい村を作るから村民になりたい人寄っておいで」と言ったら、政治家、企業、官僚などが寄ってきて原子力村ができたのでしょう。笑

 

しかし、我々村民外の一般国民には配分はありません。逆に我々はお金を出す方です。まず、日本の原子炉は全てのライセンス(基本設計、特許などなど)がアメリカのものです。しかも、保証書が付いていません。つまり、故障したら買ったものの責任なんです。そんな電化製品は世の中にはありませんが、なぜか原子炉に関しては保証書がない!それを認めてしまう、あるいはその条件を飲むのが原子力村の日本人たち。

 

さらに、使い始めればウラン燃料でアメリカは儲かります。壊れれば、修理代で儲かります。今もデブリを取り出してますが、テレビに映る作業員は日本人ですが、その修理代の大半はアメリカに行っているはずです。はずです、というのは、こういう場合の金の動きは、企業秘密で公にはならないのです。これ自体も、問題なのです。

 

なので、原発は動かしても、逆に壊れても、アメリカが儲かる仕組みなのです。それでは、なぜ、原子力村の日本人住民は協力するかと言えば、彼らにもおこぼれが来るように仕組まれているので、ウハウハなんです。

 

これは、アメリカでも同じことが起きていて、問題視されています。つまり、アメリカ人同士で原子力村を作って、お互いに儲けを分け合っているのです。エネルギーは軍需にも関わり、軍需産業とは同心円上のようです。

 

それで、地熱発電ですが、これを邪魔していると思われるのが、この原子力村の村人たちなんじゃないかと。地熱発電が主流になれば、原子力村は崩壊します。特にアメリカ人には大打撃です。原子力村の日本人会も非協力的なのは、巨大な原発に比べて規模が小さい地熱発電(日本の全エネルギーをまかなうのに最高レベルの地熱発電で、1500箇所から2000箇所になる)は実入りが少ないらしいのです。どこまでも、利己的で日本全体を考えない村人たち!

 

ただし、仮にアメリカが協力するとすれば、「開発費出しましょうか?」と言ってくる可能性がありますが、これは拒否しないと、また食い物にされてしまう。今後、地熱発電が日本中にできることを願いしますが、アメリカの甘い言葉に乗らないように願っています。

 

核融合もエネルギー対策の一つですが、これはまだ先の話なので、それまでの繋ぎとしては、地熱発電は唯一無二です。しかも埋蔵量は世界3位、アメリカが第一位(インドネシア2位)ですが、アメリカの全量の7、8割もあります。しかも、核融合など巨大な発電所が故障しても、地元民だけのエネルギーとしても使えます。つまり、大規模で依存的な原発や核融合発電と異なり、各地方でコントロールできる自給自足的エネルギーなのです。地熱で生まれるエネルギー自体は輸出できませんが、地熱発電の技術は輸出可能で、すでに世界の地熱発電の設備の6割は日本製です。実は、日本の地熱発電の技術は世界最高水準で、他の国では大いに利用されています。なぜ、日本で活発に利用されないのか?おかしいでしょう!

マスコミももっと地熱発電に関しての報道をしてほしいし、日本国民全体がそれに関心を寄せて欲しいです。

 

 

 

福島原発事故の際に「東日本は全滅する」とも言われてました。

 

あの頃のことを思えば、再度原発を稼働することはあり得ないですが「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」危機意識は国民にも議員にも官僚にも無い。しかし、相変わらず原発の不祥事は続いており、反省がありません。隠蔽体質、閉鎖性、など悪い企業体質は依然として残っている日本の電力会社は今後も危ういと思います。

ところで、この写真は福島原発事故当時の福島原発の内部のものです。吉田所長以下、フクシマ・フィフティの話は有名です。その行動も立派ですが、実はここにいること自体が非常に危険な状況でした。通常の空間の1万倍から10万倍の放射線量です。1年間浴びて良い量を数時間で達成するほどの量です。命懸けの活動でした。

 

しかし、彼らの心境は非常に複雑だったと思います。あなたなら、残りますか?逃げますか?社員は社員としての使命があります。それに従いますか?しかし、その社員も騙されていたのです。「安全神話」を住民より信じていたでしょう。原発内部で働くことを自分の意思でやっているのですから。

 

そうだとすれば、「俺は騙された」と思っても不思議ではないです。東電の幹部、あるいは科学者、あるいは官僚、裁判官、、そういう人たちが決めたことによって、事故が起こり、自分自身さえも被害に遭っている状況です。「俺は、言われたままにしただけで、俺が決めたわけじゃない。それなのに、なぜ命懸けで作業をしなければならないのか」という憤りです。本来なら、それを安全だと決定した幹部、科学者、官僚、あるいは裁判官がこの危険な作業をすべきなのです。

 

仮に、同じような状況で火事とか、地震、火山噴火、豪雨だったとしましょう。誰かがどこかで踏ん張らないと多くの人が危険な目に遭うとして、どうするでしょうか?自然災害の場合は、どうにもならない、つまり人間の力が及ばないからこそ、逆に動ける(逃げるにしても、立ち向かうにしても)のです。しかし、原発の場合は「人為的」だからこそ、問題があるのです。自然災害は訴える先が無い(あるとすれば神様)ですが、原発は作った張本人たちが存在するのです。つまり、避けようと思えば避けられたのです。そこに何とも言えない怒りや困惑があります。

 

ところで、チェルノブイリでも、同じ局面でした。あれが福島と決定的に違う点があります。共産圏は国の方針に服従せざるを得ない状況があります。なので、誰一人逆らえず、従順に従って多数の死傷者を出したのです。拒否すれば、刑務所行きでしょう。そういう点では共産圏の国は恐ろしいと言えます。いざとなれば個人の自由は無いのですから。

 

日本はそうではないから、また苦しむのです。自由意志で逃げることができるのに、逃げられない。しかし、ここで日本独特の精神があります。その精神は時には共産主義の命令より恐ろしい。同調圧力です。これもこの場面で大いに働いたと思います。なので、余計に苦しいと思います。「ここで同調圧力に負けるのか」という葛藤です。本来なら、さっさと家に帰って家族を伴って、遠いところへ逃げるのが人間本来の姿でしょうけど、それは集団の人間(日本人)だからこそ、組織人間だからこそできないのです。

 

その後、彼らの中で、反原発に動いた、あるいはその意思を表明した人は、知るうる範囲では吉田所長だけです。彼は「原子力を扱う資格があるのか」「人間に制御できるのか」「自然をなめていた」という言葉を残しています。彼だけがそういう俯瞰した見方をした、自分の意見を持っていた唯一の人間だったのだと思います。本来ならば、全員がこういう言葉を吐くべきなのです。吐きたかったでしょう。しかし、それができない日本社会だと思います。しかし、事故後に辞職した人は2年半で1400人にもなります。無言の反旗でしょう。

 

逆に、「会社人間」をその場で辞める決断をした人はさっさと逃げたでしょう。そういう人は、実は存在したはずなんですが、東電が公表しないだけだと思います。事故から数年後に私は福島原発の近くへ行き、種蒔き(1万人へ種を渡す活動)をしていました。自然食品店で、お店の人に種を手渡しつつ当時の体験談を聞きました。その方の話では、隣の家が東電の社員宅だったそうです。事故後、何も告げずに突然一家でどこかへ行ってしまったとか。危機的状況を知ったからこそ逃げたわけで、それを隣近所には知らせず自分たちだけが逃げていったことに非常に憤っていました。

 

そういうことは原発近くの住宅では数多くあっただろうと思います。本人込みの場合もあるだろうし、本人はこの写真の中にいるにしても、家族だけは逃げるように指図したとか。そういう点で、家族も肩身の狭い思いをしているわけです。そういう家族は二度と、福島には帰れないでしょう。そのような様々なドラマがこの写真ひとつから想像されるのです。

 

原発事故が起こると、今後はロボットも投入するでしょうけど、ロボットだけでは済まないことも起こるはずです。その時に、誰かが犠牲になり、危険なところへ行き、危険な作業をせざるを得ない。

 

放射線量の限度は各国ほぼ同じように決められており、通常は100から250mSvです。しかし、事故現場によっては、これを超えて作業せざるを得ない場合もあります。その場合はどうするか。中国など共産圏の国は強制的に命じることが可能でしょう。しかし、日本など自由主義国は強制はできません。その場合は、自己犠牲を望むものが出てくれば、許されるのです。福島原発事故では、吉田以下の部下はそれがあったでしょう。

 

義務と責任と同調圧力の日本だからこそ、そういう人も出て可能性がありますが、他国でもいざとなれば、プロ意識、あるいは責任感、あるいは年配者(若者を死なせられない意識)などにより、自己犠牲を申し出ることはあるようです。

 

そして、もしそういう人もいない場合はどうするか?あるいは、誰の命も犠牲にしない場合はどうするか?土地を放棄します。チェルノブイリはそうなったのです。福島も石棺にして、土地放棄の可能性がありました。今は、何十年もかけて、デブリを取り出す方法を選択していますが、果たして成功するのか。何年かかるのか、どれほどお金がかかるのか?全く、当初の計画通りにはいっていません。

 

ちなみに、通常の原発はコストが安かったのに、事故を起こしその処理に莫大な金(35兆円〜80兆円)がかかり、その分を差し引くと、原発はガス利用のエネルギーと同じくらいであり、水力や太陽光の1.2から1.5倍かかる計算になります。結果的には、原発利用は無駄、あるいは損をしたことになったのです。今後も原発事故が起こらないとも限りません。その度に膨大な費用がかかり、それを我々の血税が補うという馬鹿馬鹿しいことをするハメになるのです。

 

共産圏にしても、自由主義国家にしても、事故の際には人間が犠牲になり、莫大な費用がかかる点に関しては、非情な道具なのです。

 

ところで、もし核戦争があった場合は無論ですが、原発事故の際にも重要なものが核シェルターです。その設置率は韓国300%、スイスとイスラエルは100%、ノルウエー98%、アメリカ82%、イギリス67%と国によってまちまちですが、日本は0.02%です。

 

日本人は「安全神話」という言葉を生んだように、「大丈夫、大変なことは起きない」と思いたい願望が強いのか、核戦争などは起こらないという「平和神話」もあるように思います。それでなければ、隣の韓国が300%で、日本が0.02%は差がありすぎます。北朝鮮との距離の差はこれほど大きなものではありません。

 

日本の核シェルターついて調べてみると、ほんのわずか(三箇所)ですが、とうとう日本にも国民のための核シェルターが計画されていることがわかりました。場所は与那国島と石垣島、宮古島です。最も台湾に近い日本の領土です。以下政府の資料。核シェルターとは書いてありませんが、明らかです。

https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/shelter/kanjikai_dai1/gijisidai.pdf#:~:text=%E4%BB%A4%E5%92%8C6%E5%B9%B49%E6%9C%88%E3%80%81%E7%94%BA%E3%81%AF%E7%89%B9%E5%AE%9A%E8%87%A8%E6%99%82%E9%81%BF%E9%9B%A3%E6%96%BD%E8%A8%AD%20%E4%BB%A4%E5%92%8C6%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%80%81%E5%B8%82%E3%81%AF%E7%89%B9%E5%AE%9A%E8%87%A8%E6%99%82%E9%81%BF%E9%9B%A3%E6%96%BD%E8%A8%AD%20(%E5%86%85%E9%96%A3%E5%AE%98%E6%88%BF%E3%81%8C%E8%A8%AD%E8%A8%88%E6%94%AF%E6%8F%B4)%E3%81%AE%E8%A8%AD%E8%A8%88%E6%A5%AD%E5%8B%99%20%E3%82%92%E5%A5%91%E7%B4%84%E4%BA%88%E5%AE%9A%E3%80%82%20%E2%80%BB%E5%85%AC%E5%9C%92%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E8%A8%AD%E8%A8%88%E3%81%AF%E5%AE%8C%E4%BA%86%E6%B8%88%E3%80%82

 

日本人が一番避けていること=危機意識、を持つことが日本を、日本人を守ることになること。今の日本にはそういうことを先んじて考える人間が増えないと、日本は危ういと思います。そういう心構えこそが、安心できる未来を構築するための最重要事だと思います。災害が多い国にしては、危機意識が希薄ではないでしょうか。

 

防衛、防御も大事です。しかし、

 

なぜ、世界の政治家は核には核という弱肉強食的世界しか描けないのか?「力による平和」とは、つまり「人を殺さないと平和は来ない」ということです。我々人類には武器の前に言葉があります。戦後、アメリカが武力でなく話し合いで、ベトナム、アフガン、イラク、イランなどと交渉したならば、世界は全く違う世界になったでしょう。そして、いまだに交渉しているかもしれない。それでいいのです。本当の平和に必要なのは武器でなく、時間です。アメリカが平和だ、自由だ、民主主義だと言って、世界中で戦争して死んだ人間は数百万人。それほどの犠牲を出すほど、世界は良くなったのか?アメリカ自体が、世界を暗黒に導いている武力大国なのは、トランプに始まったことではありません。ずっと、そうだったのです。アメリカが動かなければ、テロが蔓延り、活動することもなかったでしょう。武力を使うから、武力で応戦するのです。

 

これはイランで学校が爆撃され死んだ100人余りの少年少女の写真です。平和時ならば、大罪になるのに、戦争だから誰も責任を取らなくていいのか。責任の所在どころか、どんどん忘れ去られています。

ここにはいろいろな問題があります。攻撃に際して、10年くらい前の資料に依存したことーここは以前、軍の施設があったのです。またAIにより攻撃目標を決めさせたこと。学校の屋上には学校の印がありましたが、それをAIは認識できなかった。ただし、ペルシア語だったようですが、今の技術ならどんな言語でも読めるはずです。あるいは裏読みした(軍が病院や学校になりすましていると判断)。安易にAIを使うことの最悪の弊害が出ています。また、ドローン攻撃や無人機ならまだ被害も少なくてすみましたが、この攻撃にはその何十倍も威力のあるトマホーク巡航ミサイル(450キロ)が使われました。しかも、続け様に3発打ち込まれました。一発目で助かったと思った子どもも、二発目で死に、二発目で奇跡的に助かった子どもも、三発目で息絶えた。アメリカ人の一人一人はどう思っているのか?彼らの税金がこの子どもたちの殺戮に使われたことをどう思っているのか?自国の大統領の判断をどう思っているのか?