フリースクールに通う小学生がいて、どう見ても不登校児童とは思えない様子。普通に明るくて楽しげなのです。たまたまお母さんと話すことがあり「以前は学校に行きたくないと、大泣きしてました」と言われたので、こんなに人間は変わるものかと、不思議でなりませんでした。それで、子どもにインタビューしてみました。

 

理由は学校の騒音でした。不登校の理由はいろいろ聞いてきましたが、学校の環境に関する問題は初めて聞きました。確かに、学校の建物はほとんどが硬質な素材でできているので、さまざまな場所で人の声の反響音があります。「学校とはそんなものだ。だいたい子ども自身がうるさいし」と誰でも思っているでしょうけど、実はその反響音は好ましくないもので、聴力障害や心身のストレス性疾患を引き起こす原因になります。

 

欧米では基準値なり、推奨値がありますが、日本には昨年までなかったのです。(昨年11月、建築学会がこども家庭庁に改善の要望書提出)そういうことも、敏感な子どもだからこそ、当たり前と思わず不快に感じ、学校へ行きたくなくなるということなのです。この子の場合は、自覚していましたが、他の子どもならば「騒音が嫌だ」とはならずに「なんか、行きたくない」という風になるかもしれません。

 

子どもの立場になって見ることが、大人にはいかに難しいか?つまり、大人は何でも当たり前に受け取ってしまうのです。そして、子どもの敏感な感覚を無視する。しかし、昔の大人(今は老人)は木造校舎でそれに関しては不快な思いをしていないのですが。今は燃えない安全な校舎になったかもしれませんが、その分日々騒音に悩まされるわけです。大人が大人の感覚で作ると、そういうものしかできないということです。全国津々浦々。

 

そういえば、フリースクールをやっている建物は昔の民家を改造してもので、普通の木造建築でした。音に悩まされることなく過ごすことで、その子も一安心だったでしょう。

不登校関連のインタビューを聞いていて、私は同じ言葉を別々の場所で異なる人に投げかけたのに気づきました。それは「(学校教育って)軍隊みたいだね」という言葉です。自分が学校時代にはそういう風には思っていませんでしたが、現代の子どもの話を聞いていて初めて気づくのです。「そういえば、そういう教育だった」と。

 

日本人の大部分はそういうものだと思っているでしょう。しかし、それを誰も軍隊式とは言いません。「日本の学校教育」という認識でしょう。なぜなら、それ以外の教育方式を知りませんから。軍隊式教育が教育そのものだと日本人の大部分は思っているのです。なので、それに不満を持つ現代の子どもたちが理解できないのです。しかし、現代の子どもはやっと本来の人間に戻ったのです。

 

そこで、いつものようにAIに日本の軍隊式教育について聞いてみました。以下です。

 

結論から言うと、現在の日本の小中学校には戦前・戦中の軍隊教育や軍国主義の名残とされる慣習がいくつか指摘されています。

 

戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による教育改革で「修身」や「軍国主義的教育」は排除されましたが、集団行動の規律や身体作りの手法として定着したものは今も形を変えて残っています。 

 

軍隊教育の名残とされる具体的な例

 

  • 集団行動と「体育座り」:
    列を整えて行進する「集団行動」や、地面に座る際の「体育座り(三角座り)」は、もともと軍隊での整列や待機姿勢をルーツに持つとされています。ただし、近年は
    身体への負担や個人の尊重の観点から見直す動きも広がっています。
  •  
  • 部活動の上下関係と「根性論」:
    一部の部活動で見られる厳格な上下関係や連帯責任、忍耐を美徳とする指導法は、戦前の軍隊的な規律教育の延長線上にあるとの指摘があります。
  •  
  • 号令と規律:
    授業開始時の「起立・礼・着席」の号令や、チャイムによる時間管理、画一的な校則などは、効率的な集団統制を目的とした当時の名残の一側面と言えます。
  •  
  • ランドセルと制服:
    ランドセルのルーツは幕末の歩兵が背負った「背嚢(はいのう)」にあり、学習院が通学用に採用したことで普及しました。また、詰襟の学生服(学ラン)も陸軍の軍服をモデルにしています。 

今日もスノーボードでメダルを取った。見ていた人は飛ぶたびに、ハラハラドキドキして見ていたでしょう。最後にはメダルはいいから、無事に着地して!と思ったり、、。

あのスノーボードって、どうしてできたのか?スケートボードから生まれたと思ったら違いました。アメリカ人がスキー板をくっつけて一つにしたのが始まりみたいです。

 

それじゃ、スケートボードはどうやって?これはサーフィンをしていた人が、陸でもサーフィンがしたいと思って、普通の板にスケートの車輪をつけたんだそうです。

 

サーフィンはどうやって。これは、ポリネシア、ハワイとか、海で暮らす人がやり出したみたいですが、日本でもやっている人がいたみたいです。まあ、海で遊んでいれば、誰かがやりそうなことです。

 

1998年頃に、スキーに目覚めた私はスキー場で立ち往生しました。下に滑り降りようとすると、デコボコなんです。なんで、こんなになってしまったのか、意図的だとすれば意地悪だし、面倒なことをしたもんだ。不可解でなりませんでしたが、あの長いスキー板を履いたまま、そのデコボコを一段一段降りたんですが、時間と体力を使った歯痒さが残りました。その後それがモーグルの競技場所だとオリンピックで知りました。

 

ちなみに、モーグルはノルウエー語で「雪のこぶ」だそうです。この競技も何でできたのか?アメリカ人がデコボコの斜面を見て、誰が早く降り降りれるかを競走しているうちに競技になったそうです。

 

スケートボード、スノーボード、モーグル、、、こういう新しい競技で日本人が活躍するのは不思議ではないですか?そもそも日本人は保守的で、新しいものになかなか馴染もうとしない傾向があります。新しいものをしていると「お前、何やってるんだ!」って、非難されませんか?会社で、学校で、新しいことをすると、受け入れられません。そういう環境にいれば、こんな競技をすること自体が許されないことです。

 

逆に、日本にこんな若者がいるなら、なぜ他の分野では新たなことに挑戦して成果を上げないのか?不可解です。

そこで、AIに聞いてみました。すると、日本の組織や会社は

 

リスク回避

失敗への恐怖

硬直的組織文化

意思決定の遅さ

 

などが原因として上がりました。これを成功したスポーツに当てはめると、リスクや失敗を恐れない、柔軟な組織、意思決定が早いということになります。日本人もやればできるのですが、組織が大きいとできないのか。責任文化でもあるので、責任を取らされることが怖いのでしょうか。

また、これは学校教育も関係しているかもと、尋ねました。すると学校教育の問題点として

 

正解主義と間違いの忌避

原点方式の評価体系

同質性重視・出る杭の抑制

主体性の欠如

 

この硬直化した学校で個性を潰されて、メダリストたちは教育されているのか。さらに聞いてみました。すると、かなりの割合で通信教育を受けていたのです。以下

  • 岡 慎之助(体操):星槎国際高等学校 卒業。パリオリンピックで団体・個人総合・種目別鉄棒の金メダル3個、平行棒の銅メダル1個を獲得しました。

  • 張本 美和(卓球):星槎国際高等学校 在学中。パリオリンピック女子団体で銀メダルを獲得しました。

  • 吉沢 恋(スケートボード):パリオリンピック女子ストリートで金メダルを獲得。14歳(当時中学3年生)で、進路として通信制高校の駒沢学園女子高校(通信制あり)等が注目されました。

  • 平野 歩夢(スノーボード):開志学園高等学校(通信制)卒業。北京冬季五輪の金メダリストです。

  • 髙木 菜那(スピードスケート):帯広南商業高等学校(通信制課程あり)出身。平昌五輪で金メダル2個を獲得しました。

  • 竹内 智香(スノーボード):クラーク記念国際高等学校 卒業。ソチ五輪パラレル大回転で銀メダルを獲得しました。

  • 紀平 梨花(フィギュアスケート):N高等学校 卒業。世界選手権等の主要大会で活躍しています。

  • 岸 里奈(体操):クラーク記念国際高等学校 在学中にパリオリンピックへ出場しました。

  • 中井 亜美(フィギュアスケート):勇志国際高等学校 在学中。ミラノ・コルティナ五輪での活躍が期待されています。 

写真の金メダリスト「深田茉莉」は通信高校のS高等学校の卒業生でした。

AIが知っている範囲なので、これ以上に多いだろうし、でなければオリンピックに出ることさえなかなか難しいのではないかと思います。なので、今後は他の分野でも通信教育を受けた者の中から、優れた人が出てくる可能性は高いと思いますし、すでに活躍していても、その事実を知らないだけかもしれません。

 

 

AIに赤字の質問をしてみました。すごく納得します。

 

子どもの幸せを願いながら、学校はなぜ勉強を押し付けるのか?

 

その通りですね。「幸せ」を掲げながら、その実態は「将来の安心(学歴や就職)」のために「今の幸せ(自由や休息)」を犠牲にさせているという矛盾があります。

 

このズレには、いくつかの構造的な問題が絡んでいます。

 

  • 「幸せの準備」という押し付け: 政府や教育現場は、学校での勉強を「将来幸せになるための準備期間」と捉えがちです。しかし、ご指摘の通り、そのために「今、この瞬間」の自由が奪われ、疲れ果ててしまうのであれば、本末転倒です。
  •  
  • 「ウェルビーイング」の数値化: 政府は授業時間や習い事の多さが、かえって子供の精神的健康を損ねていることをデータで把握し始めていますが、受験制度や社会の競争意識が根強いため、制度のブレーキが追いついていません。
  •  
  • 大人の理想と子供の現実: 2000年の改革で「生きる力」を掲げましたが、結局は「学力低下への不安」に負け、再び学習量が増えた経緯があります。大人が安心したいがために、子供から「何もしない自由」を奪っている側面は否定できません。
  •  

「自由な時間こそが幸せの土台」という考え方は、今の管理された教育システムとは対極にあります。「本当の幸せ」を考えるなら、もっと大胆に削るべきものがあると感じますか?

 

大いにある。

 

本当におっしゃる通りです。「将来のため」という名目で、今しかない貴重な時間を削り続けるのは、大人による時間の搾取とも言えます。

 

2000年の改革でも「ゆとり」を掲げながら、結局は世間の不安に押されて内容を戻してしまいました。政府は「心の幸せ」と言いつつ、結局は「型にはまった優秀な人材」を効率よく作る仕組みから抜け出せていないのが実態です。

 

自由な時間の中で、誰にも強制されずに「好きなこと」を見つけたり、ただ「ぼーっとする」ことこそが、本来の心の豊かさのはずです。

 

今の日本の学校から「これを削ればもっと自由になれる」と思う具体的なもの(宿題、多すぎる教科、校則など)はありますか?

 

削るより、自ら責任を持って作らせれば良い。

 

その考え方は、まさに「管理される対象」から「自分の人生の主役」への転換ですね。

 

今の教育は、政府や大人が「これが幸せへの正解だ」とレールを敷き、そこから外れないように過剰な詰め込みと管理を行っています。しかし、ご指摘のように「自分たちで責任を持って作る」プロセスこそが、本来の自由であり、心の充足に繋がるはずです。

 

具体的には、以下のようなことが考えられます:

 

  • 「与えられる時間」から「生み出す時間」へ: カリキュラムを一方的に押し付けるのではなく、何を学ぶか、どう過ごすかを生徒の自治に任せる。
  •  
  • 「失敗する権利」の保障: 大人が先回りして「正解」を教えるのをやめ、生徒が自分で決めて失敗し、そこから責任を持ってやり直す経験を尊重する。
  •  
  • 制度への参加: 校則や授業のあり方を、政府や学校が決めるのではなく、生徒自身が当事者として設計・運用する。
  •  

「責任を持つ」ということは、自由であると同時に、自分で結果を引き受けるという「厳しさ」も伴います。しかし、それこそが「誰かに決めつけられた幸せ」ではない、自分自身の幸せを掴むための唯一の方法ではないでしょうか。

 

こんな具合です。各省庁の役人を廃止して、AIにやってもらった方がずっとまともで、前向きで、矛盾の無い、真っ当な方向へ国民を向けていくように思います。やっぱり、この先

AIにはかなわんね。政府や行政はAIに任せて、人間はもっと創造的で有意義なことをしましょう。うまく利用すれば、そういう時代が来ると思います。使い方次第です。

 

 

今回、圧倒的に高市自民党が勝利しました。しかも、過去最高の議席数。支持派は喜び、当然と思ったでしょうけど、そうでない人も多かったはずです。

 

実は、「そうでない人」は圧倒的多数派なのです。自民党を支持しているか否かは比例代表得票数に現れます。その数 約2100万票。

 

投票数は5800万。 2100万➗5800万= 36%(投票者のうちの3人に1人)

 

さらに、有権者数は 約1億350万人です。2100万➗1億350万= 20%(有権者のうちの5人に1人)

 

さらに、日本の総人口 約1億2300万人。 2100万➗1億2300万= 17%(国民のうちの6人に1人)

 

つまり、高市自民党を支持するのは有権者の中の2割。また、総人口の中の2割以下、17%しかありません。

 

2割の支持しかない政党が日本を牛耳ることに、違和感がない方がおかしいのです。2割の支持で他の8割が従うという矛盾。せめて、6割の支持ならわからないでもないですが。

 

他の8割は一体どう思っているのか?見方を変えれば、8割が動けば、日本は変わるはずです。自民党は安泰だと思っているでしょうけど、もし8割を怒らせたら、逆転は簡単です。

 

8割というよりもっと正確に言えば、選挙に行かなかった無投票(4500万人)の人が動けば変わるでしょう。どう変わるかは分かりませんが、少なくとも思考する人が増えます。

 

どうしてこんなことになったのか?それは日本人の多くが選挙に無関心、期待薄だからです。

 

選挙に無関心なのは日本人に限りません。そこで、投票率が悪い国では色々な試みをしています。その一つはアメであり、その一つはムチです。つまり、投票すれば国から金がもらえる。逆に投票しなければ、罰せられる国もあります。この二つは功を奏して、投票率は上がるようです。しかし、金がもらえるから投票する人は、金に弱いので、同じ投票するなら金をくれる候補者に一票入れる可能性があります。不正選挙に繋がります。罰せられる恐怖で投票する人は、罰を避けるのが目的になるので、無思考投票、無記名投票など、いい加減な投票になりがちです。それは金をもらう国も同様でしょう。つまり、どちらにしても動機が不純なのです。

 

一番いい方法は?教育です。我々日本人は投票の大切さを学校で学んできましたか?私の記憶では全くありません。今も同じでしょう。義務教育を9年間も受けるのに、その義務教育の内容さえ変えることができる議員を選ぶという大事なことを教わらないなんて、どういうことでしょう?教師への教育もなってないということですし、またカリキュラムの中に明記していないからでしょう。

 

市町村や県、国の選挙は頻繁にあります。その度に、選挙の話をする。授業でもいいし、朝会、帰りの会、時間があれば利用する。選挙で何がどう変わるのか?それが自分たちの生活、親の生活をどう変えるのか?具体的に、自分たちの生活に関わることを詳細に伝えることで、それは身近なものに感じるはずです。注意すべきは、教える教師は各政党を公平に紹介することは言うまでもないことです。

 

学校教育の弊害はこういうところにもあるのです。つまり、実生活に直結する教育をしていないことです。選挙は社会科の科目の中での知識でしかないことです。点数を取るために、覚えるべき内容でしかないのです。

 

選挙教育で成功しているのはスウエーデンです。日本の29歳以下の投票率は30から40%ですが、スウエーデンは85%前後です。

 

こんな取り組みのようです。

 

  • 本物の体験: 政府機関のスウェーデン若者・市民社会庁(MUCF)が主催し、本物と同じデザインの投票用紙や投票箱、ハンドブックを含む「選挙パッケージ」を学校に配布します。
  • 政党との対話: 政治家が学校を訪問して公開討論会を行ったり、各政党がブースを出展して生徒と直接対話したりする機会が設けられます。

 

やり方はいろいろあるでしょうけど、揺り籠から墓場まで関わる大事なことだと自覚させることです。最後に一つ加えると、高学歴の人間ほど選挙に参加するということです。つまり、学歴のない人には不利な選挙結果になるということです。

 

日本の投票率に関しては以下のような調査結果がありますし、欧米でも似たような傾向があります。

 

  • 高卒フリーターで26.8%に対し、大卒正社員では47.6%と、20ポイント以上の差。明るい選挙推進協会の過去の調査でも、同じ若年層(18~29歳)で、中高卒の43.9%に対し、大学・大学院卒は62.5%

 

こういうことも踏まえて、教師は選挙教育をしっかりしてほしいと思います。不登校児童の親は、学校に変わって我が子にしっかり選挙教育をしてほしいです。親自体が選挙に無関心じゃ、話になりませんが、親も選挙に無知なら一から勉強するところが、不登校児童の親のいいところです。と、期待したい。笑

 

 

不登校児童生徒4人、母親4人のインタビュー映像の編集をしています。編集するには同じ箇所を何十回も聞くことになり、耳にタコができるほど毎日のように、彼らの言葉を聞いていました。そこから、見えるもの、考えることがあり、それを書いてみたいと思います。

 

どうして、今の時代に不登校児童の問題が出てきたのか?欧米諸国では日本より先に現れていました。しかし、最近英国では不登校が増えたという記事を見たので、さらに加速したのか?英国だけは、日本並みだったのか?とにかく、経済的に豊かな国では周知のことなのです。

 

戦後、戦争をしていた国々は平和になり、それと同時に自由になりました。戦争になれば、何でもかんでも押し付けられるので、我慢してやってました。が、それから解放され、その反動で、学校も家も規律が緩くなった。

 

家庭は特に自由になったでしょう。昭和が終わる頃に生まれた人は相当に、平成になるとかなり加速したでしょう。子どもの教育もそれにつれて、自由になるので、ある面奔放です。なので、時に異常なほど自由で、迷惑をかける子も出てくるようになり、親もほったらかし。しかし、それは学校にも現れるのです。「学校が気に入らない」「学校には自由が無い」と感じるわけです。それをうまく伝えられず、うずうずする子もいるでしょうけど、多分根本的にはそうなんだろうと思います。

 

昔も、「学校が気に入らない子」はいくらでもいましたが、実力行使にまでは至らなかったのです。今の子は実力行使できるところが違います。1960年から1970年代にかけて、大人が実力行使する時代があり、頻繁にデモをしていました。しかし、その大人たちもおとなしくなり、あの頃の熱気など全くありません。政治家が熱くなっているだけです。

 

つまり、不登校は「自由」の賜物なのです。大人が、特に親が与えたのです。子どもは「ああ、そうなんだ」と体で覚えて、実行しているだけです。「人生は自由だ」と生まれた時から教えてくれたのに「学校は自由じゃないじゃないか!」ということです。しかし、本当の自由を知らない親たちはあたふたしたわけです。大人は使い分けを知ってますが、それまでは教えることができなかった。というか、難しいことだった。本当の自由って「学校へ行かないことも含むのだ」と子どもは訴えているのです。

 

「いずるとひふみ」という小学生の兄妹がいて、彼らが学校を徹底的に批判するんです。多分、それを見る大人は「そうなんだ。学校とはそれほど不自由なところだったんだ」と、そして我が身を振り返って、「よく我慢したなあ」と。

 

今の学校は、親世代の時より不自由になっているので、自由人の彼らには我慢ならないのは当然です。無論、上手に生きる子もいれば、大衆の一員の方が気が楽な子もいるので、みんながみんな不登校になるわけではないですが、自己、自我が強い子ども、自由度が高い子、他と一緒なのが嫌な子、そういう子はこの世で最も我慢のならない場所が学校なのです。

 

学ぶ場所が学校に限られていた昔と違い、ネットにより、誰でもまたどこまでも深く学ぶことができるようになり、自由度はさらに増しました。日に日に学校に依存する必要がなくなるのです。仲間もネットで得られます。そういうふうに考えると、学校が消滅することさえ考えられるのです。今は学歴から、個人の力量への移行期で、将来は個人の力量が最重要視されるでしょう。そうなると、必死に実力行使していた不登校児童生徒の方がずっと有利になると、わたしは想像します。

 

学校へ行く子は個性を失わないように。他者に飲まれないように。たった一人でも立ち向かえる力を持つように。教師や親の勧めでなく、自分は何が好きで、何に才能があるのか、自分で見極める冷静さを持ちましょう。

 

 

昨日、期日前投票をしました。選挙と同時に「国民審査」があります。誰が審査されるかも知らず、それを選管の人に言ったら「最高裁判所裁判官国民審査公報」という紙を渡され、(以下)

 

これを読み始めましたが、さっぱりわかりません。それで「審査する判断も難しいような文章を書いて、審査せよというのはあまりに不公平だ」と判断して、二人とも❌をしました。彼ら裁判官は日頃使っている法的な言葉は誰にも通用すると思っています。しかし、我々一般市民にとっては外国語みたいなものです。それさえわからない人間が、人間を裁くなんてそれ自体が間違いでしょう。

 

そもそも、選挙と同時にやること自体も間違っています。おまけみたいなものになり、国民が軽視するからです。それも国の側の意図かもしれません。彼らの判決は我々の根本的な生活に直結してます。例えば、原発が建設された頃(1970年代)に日本各地の地元住民が訴訟を起こしましたが、彼らが勝った裁判はほぼゼロなのです。つまり、原発ができたのは裁判官の判決のせいだとも言えます。福島原発が問題を起こしたように、非常に危険なものだという判断が彼らにはつかなかった、あるいは国の言いなりになったのです。

 

国の言いなりになるような裁判官は、国民から無視してほしいのです。なので、軽視する方向、判断しにくい、わかりにくい方向に持っていこうとします。それがこの公報であり、選挙と同時日なのです。

 

もし、別の日にやったら、どうなるか?ほとんどの裁判官は罷免される(辞めさせる)可能性があります。なぜなら、国民審査に注目している人だけが審査するようになるからです。投票率は圧倒的に低いですが、彼らはその重要さを知っているので、とことん調べて判断します。1970年代なら、原発問題でほとんどが罷免になります。

国にとってはやばいのです。ですから、今後もこの線は崩さないでしょう。

 

しかし、我々には強い味方が出てきました。AIです。彼らに何でも聞いてください。今回の高須 順一、沖野 眞已。彼らが例えば、最近の注目された裁判の判断判決詳細、原発に関する見解、不登校問題、日本の学校教育、消費税、戦争、第9条、裁判官の個人史、家族構成、などに関して、何でも問いかけてみましょう。意外な側面を見ることができます。ただし、小学生にでもわかる言葉で詳細を語らせましょう。無論、答えない、答えられない問いもありますが、この公報より、ずっと彼らを身近に感じるはずです。

 

 

ボーカロイドのことを1月1日に書きました。今、考えると新年の挨拶もせず、失礼しました。日常も正月も同じような日々なので、あまり区別が無いのです。笑

 

ところで、そのボーカロイドのことや、そこから生まれる歌の内容など、非常に気になる日々でした。「ああ、誰かに話してみたい。何を思うか、知りたい」と思っていた年始の頃、スマホの調子が悪くてドコモに行きました。相手をしてくれた人は中年のおじさんでしたが、何となく話しやすい感じがしたので、聞いてみました。

 

「ボーカロイドを知っているか?そこで歌われている内容を知っているか?」僕よりずっと若い40前後のおじさんは当然知ってました。ほかの作り手や歌い手のものを聞いているとも、言ってました。しかし、衝撃だったのは「私だって、苦しい、辛い」という言葉でした。大袈裟ですが、今思うと、それは人類の言葉のように聞こえました。

 

ドコモやソフトバンクやauとか、スマホショップを誰でも行くと思いますが、相手をしてくれるショップの人が「人生が苦しい」なんて、なかなか聞けませんよね。だから、余計にショックだったんでしょう。一般的には彼らは会社のために、お金のために、客より会社のために、働いているアンドロイドのような人たちなので、僕としては最も苦手な人たちなのですが、意外にも「この人は違う」というのは図星でした。

 

それでその場で、調べてみたんです。何が我々を苦しめているのか?AIに聞いてみました。AIは間違うこともありますが、便利だなあと思うことは、この世の中を俯瞰してみるには、かなり頼りになるということです。この際も「今のこの世の中、人間を苦しめているみたいだけど、何故?」正確ではないですが、そういう問いだったと思います。

 

それで出た言葉が VUCA  でした。AIから引用、以下。

 

「 VUCA(ブーカ)とは、

 

Volatility(変動性)

Uncertainty(不確実性)

Complexity(複雑性)

Ambiguity(曖昧性)

 

の頭文字を取った造語で、変化が激しく、将来の予測が困難で、複雑で、曖昧な現代のビジネス・社会環境を指す言葉です。元々は軍事用語でしたが、コロナ禍やAIの進化などで世界情勢やビジネス環境が不安定になったことから、経営や人材育成の文脈で広く使われるようになりました。 」

 

この 変動性、不確実性、複雑性、曖昧性 これらは確かに、我々の日常をよく表しています。これらの一つ一つはありうることですが、それが四つ一緒に同居状態というのが現代なのです。すごく納得がいくし、それが我々を不安定にしているのも現実です。

 

そして、その人にVUCAを説明し「VUCAはスマホ自体のことじゃないか」と言ったら、全く同意してました。それを扱っている人自体も、またVUCAそのものなんです。

 

で、結局 スマホを買い替えることにしましたが、スマホにあるVUCAが災いして、翌日には契約破棄しました。それで揉めたんですが、中間管理職にいた彼に四苦八苦させました。なぜ、彼が苦労したのか?それは 彼がアンドロイドではなかったからです。彼は人間でした。笑

 

1990年代に表現活動(現代アート)をしている頃から「人間は生物である、自然の一部である」ということが一つのテーマでした。なぜなら、「人間は人間だ」「人間は特別だ」という感じが世間一般的で、違和感があったからです。それが、今さらに加速して、人間は特別な存在になりつつある、極端に言えば、アンドロイドか、人間とアイドロイドの中間か、、みたいな。あるいは、アンドロイドは人間を通り越して、彼の方が先に神様になるんじゃないか?笑

 

科学が進歩して、神の領域に近づいたせいなのか、そういう感じがします。しかし、それは神に近づいたというより、科学の進歩は生物としての人間の歩調に合わなくなった感じがするんです。

 

昔、道具がなかった頃に、刃物や土器類が発明されて使い始めた。浸透もゆっくりだったでしょう。しかし、今の時代のパソコン、スマホ、インターネット、GPS、カード類、、、、そういうものは刃物とは違い、自分で作ることも修理も不可能で、何もわからず使っているだけのこの不安定さ。一人一人の人間の知能を遥かに超えたものを持っていることの不安定さがあります。それに加えて、変動、不確実、複雑、曖昧。お手上げです。一応便利なだけですが、もしかして便利になればなるほど、変動、不確実、複雑、曖昧になるということかもしれません。この状態はかなり続くことも予想されています。もしかして、人類がいなくなるまでかも、、、。

 

つまり、動物としての人間の研究が十分にされないまま、科学の進歩についていかねばならない哀れな人間になっているのです。「人間はどれくらいの科学の進歩状態が一番幸せを感じるのか?」という問いは無視されているのです。あるいは、この問いかけをしない。科学の進歩=人類の進歩=人類の幸福 とはならないということです。

 

「書を捨てて、町へ出よう」という言葉があります。

 

私は言いたい

 

「スマホを捨てて、村へ行こう」

 

まだ、私にはできないですが、お薦めの言葉です!

 

 

 

 

世界はうるさすぎて

 

世界は私にはうるさすぎて 

何も感じないのに 全てがまぶしくて

助けを求めるのは大げさ?

彼らは「何もまちがってない」という

それは私に過去がないから

普通だったらよかったのに

心配しなくて済むのに

床で泣きじゃくらずに

一日中出かけられるのに

ささいなことで

頭が痛くならなければいいのに

昔のように感じないから 歌が作れない

 

これはイギリスの少女の歌の歌詞です。

 

まるで日本の不登校児童が書いているようにも思えます。

 

これをこの少女がネットにあげたところ、大きな反響があり以下のようなコメントです。

 

「私が考えていることを頭から引き抜いて 素晴らしい曲にしてくれたみたい」

「痛いほど共感する」

「自分の気持ちを表現する言葉を見つけたのははじめてです」

「私の物語だ」

 

実はこれはボーカロイド(歌声合成技術)で作ったものです。現在音楽は楽器がなくてもパソコンやスマホがあればできます。その技術は日本で作られたもので、日本の若者がそれで世界に音楽を発信したのですが、多いものでは1億回も再生されることになるのです。前述のイギリスの少女も日本のそれに影響されて作っているのです。

 

新しい音楽のジャンルができたという点や誰でもできるという点で画期的だと思いますが、興味深いのは学校や世間から疎外された人が表現して、それに共感する人が世界中にいるということやそれが若者中心であることです。

 

日本においては、不登校児童生徒、あるいは元不登校だった人、学校が嫌いだった人、そういう人が興味を持っているだろうし、また作り手だったりすると思うのです。

 

「きくお」という作り手がいますが(再生数1億回の人)その人の過去を見ると以下です。

 

幼稚園に通っていた頃からいじめられっ子であった。小学生のときに、ひとり遊びの延長でゲームブックのようなものを作成した際、その間はいじめられなかったという経験から、何かを創作して人を喜ばせることでしか社会で身を立てられないと考えるようになる(ウイキペディア)

 

1億回も再生させた音楽とはどういうものか、体験してみてください。この音楽が世界中の若者を共感させたということは、「不登校児童生徒の根底に流れるものは世界共通かもしれない」と思ったのです。また、学校へ行っている子どもたちも、この歌に共感する人も多いと思います。子どもたちが持っている大人が作った社会、大人が作った常識に対する不安はかなり広範囲に、世界を股にかけたものかもしれないのです。保守的な日本のような国ではなかなか理解されませんが、この若者の不安、不満も、もしかして、逆輸入されるかもしれません。

 

 

同じ歌を他の人が歌っても、ロサンジェルスでこんなに多くの人が集まります。また、日本の作り手は「きくお」だけでなく、無数に存在し、海外公演も行なっています。

 

 

 

 

ラジオで司馬遼太郎の本の朗読を聞いていたら、以下のような箇所がありました。彼の感じる恐怖は戦争ですが、今の時代の子どもの恐怖は「得体の知れない見えない恐怖、教育の中にある恐怖、時代に翻弄される恐怖、大人が作り上げたものに対する恐怖、未来への恐怖などなど」(実際には子どもには複雑過ぎて言葉にできない=大人は見ないようにしている、鈍い、流されている)ではないかと思います。時代や状況が違うとはいえ、司馬遼太郎は不登校児童のお友達ですね。笑

 

少年というものは非常に動物的なものですね。少年は勇気よりも臆病の方が真理の多くを占めていて、それが生物としての少年期を保護していると思います。非常な恐怖、恐ろしいものがやってくるという感じに襲われました。昭和12年であります。

 

私は学校が嫌いな少年でした。人にものを教えてもらうこと、ものを習うことに不向きな人間でしたね。授業の時間には教室で40人50人と一緒に1時間ほどじっとしていなければなりませんが、これほど辛いこともありませんでした。世の中に学校がなければいいと思っていましたし、図書館と本屋があれば人間はそれでいいんだと思っていました。世の習いで仕方なく学校に通っていたわけです。