3連休であった週末。
久しぶりに、大学の同級生たちと再会した。
学生当時、研究室で指導していただいた教授の退官祝いが行われたからだ。
卒業してからしばらくは、自由な独身時代に一緒に旅行したりして、長期休暇が取れるたびに会っていたものだが、それぞれが結婚し、伴侶ができてからは、なかなかそうもいかず、疎遠になっていた。
前回みんなに会ったのは、なんと、娘が誕生した時だった。
あれから、もう10年の月日が過ぎていた。
卒業してから、と考えると、ゆうに20年を経過した事実をお互いに確認しあい、ビックリしたものだ。

教授の退官祝い
10年前も、もう一人の教授が退官を迎え、数人は出席していたのだが、私は、出産の関係で、出席できなかったので、こういった催しに参加させていただくのは、最初で最後になってしまった。

結構立派な料亭で、お祝いの会は開かれた。
そこで再会した教授は、髪の色こそ白髪にかわっていたが、歯に衣着せぬ物言いや、核心をズバッとついてくる一方、お茶目なところがある感じは、当時と寸分も変わらなかった。

20年ぶりとなる、同門の会。
私は、研究内容とは全く異なる世界に就職したので、当時を懐かしんで語られる単語は、まさに20年ぶりに聞く言葉の数々。久しぶりに眠っていた脳細胞がよみがえった感覚がした。
それと同時に、当時のことを、なんとな~く思い出した。
何の論文を書いたのか、出席されていた方々は、みなさん覚えていたみたいだったが、自分は何も記憶になく・・・・というか、フラスコの中で、シイタケ菌の栽培をし、いろんな検証を行ったことは覚えているが、結果・・・・結論をどんなふうに結んだのか・・・・まったく覚えていない。
そもそも、その研究室に入ったいきさつさえ、思い出せない自分がそこにいた。
1次会、2次会を含めて約5時間。当時の記憶を探った。
人から聞いて知る、自分の当時の様子。ぼんやりとだが、お開きになるころは、少しだけいろんなことを思い出した。

友達、先輩に会って、自分を振り返った時、研究室にいた1年間が自分の人生の原点だな・・・と思えた。

大学での同門の会だったが、そこから、自分の原点を知った気がする。

大学に入学を決めるまで、これは、高校時代を振り返るしかない。
高校に入ってからは、やはり進学校。みんな、頭が良かった。部活どころではない、というのを、最初の試験で知った親は、部活動を禁じた。たいして活動のない、放送部に籍だけあるかんじだった。高校生活は楽しかった。勉強は、入学して1年間はさっぱりだった。何度か、赤点集会なるものに出る羽目にもなるくらい、ちんぷんかんぷんだった。特に数学。当時の担任は、数学の教師で、土曜の午後などに、勉強を見てくれた。が・・・先生のおっしゃる意味が、さっぱり理解できず、意味をなさなかった。そんな中、ある日、先生の都合で、別のクラスを教えている数学の先生が授業をしてくださった。数週間、それが続いたおかげで、霧が晴れるかのごとく、数学を理解できるようになった。そして、それを機に、1、2か月のうちに得意教科になり、理系のクラスに進級したほどだ。今では、数学を指導するのに得意教科になっているのだから、人生というのは分からない。
進路を決めるにあたって、大学に行かせたい親。だけれども、そうそう裕福な家ではなく、国立大学にしてくれと。一貫して地元の教育学部への進学で来たが、受験直前になって、隣県の大学の理学部でにおいの勉強をしてみたい、と親に言ったと思う。同級生が、それぐらいのお金は、あるはず・・・と助言してくれたので、一応言ってみた。だけれども、芸術に秀でた2つ下の妹が、芸大に行くかもしれない・・・という理由で、親から、どうしても地元の大学にしてくれ、と言われ、じゃあ、先生なんか目指さずに、やってみたかったことに近い、農学部にしよう、そんなノリで大学を決めた。まぁ、隣県の理学部を受けても、受かっていたかどうかもあやしいのだが。
大学に入学してからは、一般教養の勉強を履修している間に、原因不明の難病にかかり、生死をさまよう経験をした。大学を休学し、治療した。いい先生に出会い、回復し、試験を受けさせてもらえるものは受け、単位をとった。とにかく、目の前のことで精一杯だった。研究室を決めるときは、今思えば、きのこ、という身近で分かり易いテーマだったから・・・・そんなところだったかな、と思う。ちなみに、他の研究室は、ダムだの、森林計画だの、なんだので、あまりにも現実離れしていて、教授の言うことがサッパリ・・・だったことが原因な気がする。


思えば、自分で考えて選んだのは、研究室選びが、最初かもしれない。
それまでは、なんとなく、周りがこうしてほしいと思っているのかな、を察知して、物事を決めていたような気がする。準備された道の行きやすい方を選ぶだけで、他の道を調べたり悩んだりしていなかったな、と思う。結果的に、楽な道を選んできたのかもしれない。

ただ、入った研究室は、他の研究室とは違って、とことんまでこだわるところだった。2週間に1回の研究成果報告会、週に1回のゼミ。それに追われる1年だったが、基本的なものの考え方や、プレゼンの仕方、理論立てて物事を考える方法など、その後の社会人としての勉強に役立つものがごまんとあったと思う。自力で論文を書いて(他の研究室は、先生が結構書き換えてそれを論文としていたところが多かった)(日本の大学、それでいいのかよ・・・・今は、きっと違うと思いますが・・・)、その分野の一般企業様の前で、研究成果を発表させるという、当時は、そんな研究室はどこにもなかった。その経験は、本当に今でも役に立っている。そのおかげか、人と話すときは、割と理路整然と分かり易く話せるほうだと思うし、話が脱線して戻れなくなるということは、まずない。
それからの私は、自分で物事を決められるようになり、成功しても失敗しても、決して他のせいにすることがなくなった。

数時間の会が、自分を振り返るいいチャンスを与えてくれた。
あの1年がなかったら、今の自分はない。
それは、事実だと思う。
自由な中にも厳しさがあり、そのくせ縛られすぎない。
一緒に行った同級生は、先生は厳しかった・・・今でも、こわい。そんなことを言っていたが、私には、叱られた記憶すらなかった。それは、決して有能な人間だったからではなく、叱る価値もない人間だったのかな、と今は思う。

現在、自分があずかる子供たち、自分の娘に、勉強なんてできなくてもいい、小さいうちから自分を持て、と口を酸っぱくして言うのは、実は自分が、自分の意見を持たずに幼少期を過ごしたからなのかな~と思う。

娘には、これまで、大学なんか行かなくてもいい、後悔のない人生を・・・と思ってきたが、やはり、大学までは行って、有能な友人たちと切磋琢磨する時間を過ごしてほしい、と思い直した週末でした。

帰宅して、
「20年前、ママが通った大学に行ってみたり、その時の同級生と会ったりしたんだよ~。」
と話したら、
「私もママが行った大学に行こうかな~。」
と娘。
自分で選んで通ってくれたら、うれしいな。


娘のピアノの先生、手術されるそうな。

お見舞い、個人で行く?
代理で、取りまとめて行く計画もあるよ
なんて連絡あったけど、
そもそも、お見舞いなんて考えてなくて。

逆の立場だったら、そっとしといて欲しいかなー、
と思って、特に考えてなかった。
スッピンにパジャマで、弱ってるとこ、誰にも見られたくないもん、自分なら…

レッスン再開、首を長くして待ってます
が、1番のお見舞いかなーなんて思ってたけどねー。



実は、娘のお習字の先生も、
先月からずっとお休みされてて、
今日、久しぶりのお教室だったんだけど、
学校から帰るやいなや、
「ママ、厚紙ない?」
せっせと何やってるか、と思えば、
久しぶりに会うのに、先生に、長い間頑張ったね
の賞状作ってました😊
私はお会いしてないから、先生の様子は分からないけど、喜ばれたんじゃないかな、と思う。


ピアノの先生には、
病院から自宅に帰った時に、元気が出るように
お手紙でも贈ろうかな。
娘のココロが届けば、それが1番のお見舞いではないか、と思う 今日の出来事だった。