こんにちは、かすみです。

前回の記事で、たんぽぽに「咲いてくれていてありがとう」と言える気持ちを自分以外の他人に向けてあげましょう。
という話をしました。

でも、たんぽぽには優しい気持ちで「かわいいね」「ありがとう」と言えるのに、例えば親や長年連れ添っているパートナーなどにはなかなかそういう『無償の愛』を提供するのはできなかったりするものです。

じゃあ、なぜその相手に無償の愛を送れないのか、ということを今日は話していこうと思います。

様々な理由がありますが、私が特筆するのは「自分の利益になるかどうかを考えている相手だから」です。

たんぽぽに、自分の利益は考えていませんよね。ただ、そこに咲いている健気さに私たちは癒されています。
つまり、たんぽぽは「自分を愛してほしい」とか「自分をよく見せよう」という意識はないのです。そこに私たちは「健気だ」と反応しています。


たとえば、恋人に例えると、「もちろん生きてくれていて、私と出会ってくれていてありがとう。とは心から思っている。でも、先月の2年記念日になにも用意していなかったし、むしろ忘れてるんじゃないかレベルだったし、同棲し始めて3ヶ月経つけど、ごみ捨てさえ昨日忘れてしまっている。昨日も飲み会で作っていた夕食も食べなかったじゃない。私ばっかり家事をやっているのよ」なんて思っていたりしますよね。

私ばかりその恋人の行事に積極的で、本当は相手も同じくらいに思っていてほしい。私はこんなに愛しているし尽くしているのに彼はそれと同じような愛を私にくれない。


そういう気持ちがあると、「もちろんありがとうと思っているけど、でもこういうこともあって純粋にありがとうとは思えてない自分」が出来上がる訳です。

私はそういう経験があります。
私の場合、そうやってピュアに感謝できていない自分を責めて、彼に依存している自分が悪いんだと思っていました。
だから、彼にそういう私を許してほしかった。

依存している時点で、期待も要求もかなりのレベルでしているのに、さらに許してもらおうとそれを与えてくださいと重ねて要求していました。
期待と要求の無限ループにはまっていましたね。


あれ、なんか話の流れがよくわからなくなってきましたが。。。。
でも、恋人に要求することってとても多い気がするのです。親よりも、友達よりもパートナーにすべてを要求していく。
(私がそうだったという経験があるのもありますが)


話を戻して、その要求や期待が「ありがとうと思っているけどでも、、、」の”でも”に含まれているわけです。

この二つの要素があるかぎり、たんぽぽと同じような自然で穏やかなありがとう、は思えない。思えないのです。



パートナーは自分の要求をのむために生まれてきたのではありません。
期待に応えることだけが生き甲斐である人生ではありません。

パートナーはあなたを幸せにするために生まれてきたのではありません。


これをわかっているかどうかで、パートナーを幸せにしているかが決まってくると言っても嘘ではありません。
この事も、いつかかけたらいいな。

今日はおわり。