大阪「タチソ」(高槻地下倉庫) | 丹波マンガンのブログ

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大阪地下壕

関西で最大の地下壕といわれるのが「タチソ」という。

高槻地下倉庫の略称である。

京都と大阪の県境にある大阪府高槻市成合地区に地下壕群が掘られた。

本土防衛中部軍の倉庫や航空機の製造の為に1944年頃から

日本国政府が建設、採掘し始めた。

陸軍戦闘機の尾龍【軽爆撃機でもある】や飛燕を生産していた。

川崎航空機明石工場が防空対策(空襲の激化)から、戦闘機飛燕のエンジン部門の生産を疎開させ空冷は兵庫県二見に、水冷は大阪府高槻に分散した。

タチソを見学したのは1985年頃であったが見られる大きな地下壕は3本程で実際に地下壕の中に入れたのは1本だけで後の2本は土砂に埋まって上部1mだけが露出していた。

中に入れる地下壕は幅10m高さ5mで内壁は厚さ50cmのコンクリートで半円形になっている。

戦争末期に創られた内壁のコンクリートに使っていたのは鉄筋ではなく木筋だった。

土木をかじった事がある人なら知っていると思うがコンクリートとコンクリートをつなぎ止めるのが鉄筋であるが鉄がない為に木を代用品として使っているのである。

当然、木は腐りコンクリートの中が空洞になりクラック(割れやヒビ)が入り剥離して落盤する。

しかも、コンクリートもザラザラで明らかにセメントの配合量が少ない。

落盤しやすい危険カ所だけをコンクリートを打設していて殆どが岩盤がむき出しのままである。

現場に立つと相当、無理な工事で会った事が伺える。

国鉄岐阜地方施設部門関係者が米軍調査団へ示した数字では朝鮮人が3500人と報告しているが聞き取り調査では2万〜3万人の朝鮮人が強制連行され強制労働させられた。

10m高さ5m のトンネルが16本の隧道が網目状に掘られ、その間に地下の部屋が張り巡らされた。

その他にも3m×3mの隧道や 2m×2mの隧道等数十本が至る所に採掘された。

地質が砂岩である事から砕石場が出来て地下壕は破壊されつつある。

地下工場の床面積は計画では28000㎡であったが実際に完成したのは9000㎡だった。

しかし発見されていない地下壕も多いと言う。

地下壕の中に560台の航空機製造の機械が搬入される予定であった。

野外の工場は57000ヘイホウメートルにのぼったという。

朝鮮人労働者は間組、岐阜の神岡鉱山、滋賀県の土倉鉱山、大分県、長野県等各地から集められた。

強制連行された朝鮮人は寝込みを襲われたり、なかには新婚3日目に拉致され強制連行された朝鮮人もいた。

一日3交代の24時間掘る突貫工事だった。

食料は雑穀が主でコウリャン・大豆が多かった。

労務費は全く支払われず、労務費どころか監禁、虐待が日常的に行われた。

あまりに大豆や雑穀が多いので殆どの朝鮮人労働者は腹を壊したり下痢を起こしたが仕事に出なければ腹痛で苦しむ労働者が仕事に行くというまで殴ったそうです。

194411月〜1945815日の工事期間中に高槻市に残る埋火葬許可証だけでも55人の朝鮮人の死亡が確認されている。

慶尚南道22名、慶尚北道8名、全羅南道12名、

全羅北道8名、忠清北道1名、平安北道1

済州道3名などである。

死因は頭蓋骨骨折3名、墜落死頭蓋底陥粉砕骨折1

挫創及会蔭部打撲1名、変死(窒息死)1名、溺死1

リンチや惨殺によると記されている。

地下壕近くの真上村墓地には地下壕工事で死亡した300人の朝鮮人が埋葬され内100名は無縁仏となっている。

1964年でも強制連行の朝鮮人が100名余り居住していたが

不法居住だとして行政の放置に会い道路は狭く消防車も入れず3軒が火事で焼失した。

水道管も遅くまで配給を行政側が拒否していた。

下水も埋設されず居住権と立ち退きの是非をめぐって訴訟となり1983年朝鮮人が土地を買い上げる形で和解となった。

日本国政府が反省しているのなら朝鮮人の賠償や生活補償も実施すべきだが残留した朝鮮人を不法住人としての邪魔者としか扱わなかった。

又、死亡した遺骨返還も全く行っていない。

これでも安倍首相の言う出稼ぎ労働者だろうか?