幸せですか?不幸せですか?

こう考えるとき、何を基準にしますか?

生活でしょうか?それとも仕事でしょうか?

どちらにしても、幸せだと言う人は

その幸せを持って、どうなりたいと考えますか?

あるいは不幸せな人は

その不幸せを解決できたらどうしたいですか?

今回はそんな、幸せに関して気付いたことです。




人は皆、幸せになりたくて生きています。

幸せになりたくないと言う人は少ないでしょう。

じゃあ幸せの構造はどんなものか考えたことがありますか?

大抵はそんな暇がないと言うでしょう。

では改めて考えてみましょう。

まず、幸せとは"個人的な幸せ"と"社会的な幸せ"があります。

個人的な幸せとは欲に依存することです。

これは人それぞれなのでおいらがとやかく言える話ではないでしょう。

じゃあ社会的な幸せはというと、

それは不安がなく不満もない社会を指すのだと思います。

しかし、それが本当に幸せにつながるのでしょうか。

もし本当に不安も不満も社会から無くなったら幸せになれるのでしょうか。

おいらは、「幸せにはならない」と思います。


この説明をするためには協力の話をしなければなりません。

人はどんなときに協力し合うでしょうか?

それはおそらく、"個人では解決できない問題に直面したとき"ではないでしょうか?

個人で解決できるなら、協力の意味がありません。

ですが、個人だけでは解決し得ない事態になったとき、人は互いに手に手を取って協力しようと思うのではないでしょうか。

ならば、協力する必要がなくなったとしたら人はどうするでしょうか。

協力する必要がなくなる、というのは個人レベルではどうすることもできない事態―――とりあえずここでは社会的脅威とします―――が問題にならなくなったとしたら、という話です。

そんな状態になったら、人はどうなるでしょうか。

空論でしかないでしょうが、性悪論でいけばおそらく、協力を忘れ利己に走ると思うのです。

そして、そうなってしまうと政府に対して暴動(あくまで個人的な理由で大衆が殴り込む)が起きたり犯罪が増えたりして手がつけられなくなる畏れが出てきます。

となると、政府としては国民の幸せを作り出すよりもとりあえず国民が協力し合えたままでいられるように、社会的脅威を作り続ければいいという考えになるのではないでしょうか。

アメリカは大統領という国民が選ぶ政治の代表を決める選挙をするので、必然的に「国民のための政治」をしなければならないですが、日本では首相という国会議員が政治の代表を選ぶため、必ずしも「国民のための政治」をしなくてはいけないわけではないのです。

だからこそ、国民に対して不都合な政策を次々と打ち出して国会を騒がせているのではないか、

と思うのです。

こんなことをしたら、支持率が下がって政府運営が続かなくなるじゃないかと思うかもしれませんが、

むしろ国民が大挙して政治批判をしていれば、

ひとまず国民は協力し合っているということになるわけです。

もし政治が国民に有利に動いていったとしたら、

人は協力を忘れ、

大災害時に助け合う心をなくしてしまうかもしれない。

巨悪に対して団結する意志を持たなくなってしまうかもしれない。

そうなってしまったら、国としてうまく回っていかなくなってしまうという脅威。

それが政府にとって国の最悪のシナリオなのかもしれません。



人は、良いことに対しては意にも介さなくなります。

が、悪いことはいくらでもいくつでも覚えています。

小泉さんが首相時代に行った政策を思い出せますか?

どの政権時でも、良いことというのはすぐに忘れられてしまい、悪いことばかり追及されるように思います。

ということは、悪に対して団結する気持ちを忘れさせないということでもあります。

だからこそ、歴代の政権は国民に不利な政治をするのではないでしょうか。

警察が正義で居続けられたのは、暴力団という悪がいたからなのです。



Android携帯からの投稿