Wikiによれば、それは人や位格を意味したり(ラテン語)また心理学では仮面とか人が持つ己の外的側面であるという。

人は生きていく上で様々な顔を持つ。
仕事の顔、遊びの顔、素の顔など。だがそれは人によって意味合いが違ってくるのだそうな。
自分という一つの意識の中でそれぞれの場面に適応するためのフィルタ的役割であったり、または自分という意識を守るために存在する防壁のような役割であったり。
おいらは前者的なイメージを生まれてからずっと持ってきたんだけど、最近になって後者的なイメージを持つ人もいるんだと知った。それはコンセプトカフェのキャストさんやコスプレイヤーさんに多い。

(主に)彼女達はコスプレしてるときの顔やコンセプトカフェで働くときの顔は自意識の中の一つの個性なのだそうな。そしてそれらの個性はそれぞれの場面に於いて絶対に他の個性とは干渉も交代もしないのだそう。
だから、「好き」だの「愛してる」だのという話になっても素の部分には全く届いておらず、適当にはぐらかせられるというのだ。

おいらにはこれが理解できない。

いや、理解できたからどうというのではないんだが、じゃあ自分の素の部分で異性を好きになるときはどうやって判断するのだろうということ。
人を好きになるときは掛け値なしの素の部分でどう思うかじゃないかと。でも素の部分を見せられるのはごく限られた一部の人間であるなら、それは素の部分しかなかった時代に出会った人でしかないのではないか。
様々な個性を通して出会った人とは何も通わせられないというのなら、これほど勿体無い出会いはない。というか取り付く島もない。

何が言いたいかというと、そんなに自分を防御してて悲しくないのかと。どんな個性であっても自分の一部であって切り離せはしないのだから、出会いは出会いだと言いたいのだ。仕事モードでも趣味モードでも、それらを通して出会った縁をなぜないがしろにするのか。

出会いがないとかいうのは、自分の理想と合致した人に逢わないというだけで出会い自体がないわけじゃない。自分が素を出さないから相手の本質を見ようとしないし良さを探そうとしない。

出会いはもっと大切にしてほしい。仕事辞めたら縁も切るのは寂しいよ。




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