自死遺族の自助グループが全国的に広がるためには何が必要か、とたずねられたら、
私は何よりもまず「遺族としての誇り」だと答えたい。
行政からの支援や、広報活動も大切だが、そこが基盤にあるのではないと思う。
立派な息子だった、素晴らしい娘だった、優しい夫だった、とても愛らしい妻だった、
母は美しい人で、父は思慮深い人だった。
そして、私たちにとって、かけがいのない人たちで、家族として、
ひとつ屋根の下で、幸せで心豊かな時間をともに過ごした。これが遺族としての誇りなのである。
そんな愛する人が、みずから命を断ち、突然いなくなった。
それを他人(ひと)は裏切りと呼ぶかもしれないが、
それは私たちがともにすごした長く愛(いと)おしい日々を知らないからだ。家族の思いには、家族しか知らない光景が無数に重なっている。あなたたちは何もわかっていないと、遺族は世界に向けて言いたいことだろう。
愛しい人の命が自死で終わったとしても、その人生が失敗だったわけではない。
生きてきたことが無駄だったわけではない。家族が無惨にも、すっかり壊れた、というわけではない。
しかし、そう他人(ひと)からは思われているのではないか。
そうではないと言いたくても、それを世間は聞く耳を持たないのではないかと恐れてしまう。
「とても素晴らしい人でした。家族として、いっしょに暮らせてとても幸せでした」と、
胸をはって言っても、すぐそのあとから、
「でも、自分で死んでしまったんだよね、残念だったね、悔しいよね」と言われてしまう気がする。
そして、そこからは「なぜ、私を残して死んだのか」という恨み言と、
さらに「どうして(自死を)止めることができなかったのだろう」という自責の言葉が、
遺族自身の口から出てくることを(周りの人は)待っているかのように思えてしまう。
そんなふうに先回りして考えてしまうから、遺族は、なかなか愛しい人への誇りを語ることができないのではないか。
