宗教の脱成熟化の号外として阿頼耶識のみを扱っている。


この世には目には見えない意識の領域が存在する!を理念とする唯識派の法相宗なる宗派が存在する。これがまた目には見えないという思想に対し、とりわけ非常に大きな衝撃を受けることになるが、これをどのようにして扱っていくかが大きな問題となる。


この目には見えないというのが問題であり、では、法相宗はどのようにしてこの宗派の核心部分を奈良時代から現代に引き継いできたのかなど、現代人的にはそこを問題意識とするだけでも頭の体操になる。


そもそも認知できない心を心に含めるのかなどの大きな問題があるが、そこを心の問題として処理した事にも大きく注目しなければならない。見えない事を認知していることは事実である。では、その根拠となることを探っていくことが現代人としての使命であるように思う。


阿頼耶識とは漠然と「場」を示すものである。これを構成する要素が種子となるが、これは目には見えないので、立証は不可能とされている。ではなぜ種子がこれほどまでに大切にされているのかを考えていく必要があろう。


種子は無いが、実はある!との対立するものをどのようにしてつなげていくかであるが、ここに発想の原点があろう。よって、主張する側は物凄く苦しい立場となる。


では昔の人はどのようにして種子を確信してきたかといえば、一つに睡眠中に見る「夢」がある。日本の昔話には夢の話がたくさんある。ユング派の心理学者やカウンセラーは夢分析こそが心理分析の中心であると捉えるが、この夢を通じ、種子を感じていた可能性は高い。


夢分析についてはもっと後のネタとするとして、現代における種子論からすると、本当に種子は可視化できないのかとなると、それは間違いとなる。少なくともアニマについては既に立証されており、その意味で、種子は実際に存在することになる。


こうなると、これに関連する元型は確実となってくる。例えば、影、ペルソナ、老賢者、自己である。種子論からすると、種子はアニマを含め、5段階に変化していく事になる。


これまでは「存在しない」事でのファンタジーとして、それこそ人間の欲望に沿ったファンタジーを描くことができたが、種子が存在することが科学的に証明されている現在において、その範囲内でのファンタジーを描いていかなければならない。


このように書くと、「また田中が話を混乱させて喜んでいる!」との声が聞こえてくるが、これをうまく感じているのが今時の10代である。


ここまでくればお分かりだと思うが、無意識の最も深い層の存在が明らかとなると、絶対に対する認識に大きく影響を及ぼす。真っ先に影響を及ぼすのが数字であろう。数字は絶対であると思われてきたが、絶対ではありえないものが絶対となると、これまで絶対であった事は絶対ではなくなる事を意味する。


例えば、男性の中の女性性が現実であるとすると、簡単に人口変動が起きてしまう。端的には、男女別なる統計学的な類型化は意味をなさなくなる。


これ以上いうと他の学問分野から業務妨害と言われかねないので控えるが、唯識にはこれほど大きな可能性を秘めているといえる。これが何を意味するかといえば、宗教こそ「絶対」との仮説へと転じ、実はそれを証明していく可能性を秘めているのが大乗仏教における唯識派ではなかろうかとの仮説を持っている。


大乗仏教にかんしては最近になって批判が多くなってきているが、それは1,300年前の考えをそのまま引くからである。とはいえ、私の立場は法相宗が日本に入ってきた頃のものをそのまま受け継ぐものである。この「あいだ」に立つのが現代日本における18歳以下の若者達である。


さて、奈良時代の宗教とはどのようなものであったのか。私は現代の18歳以下の若者達とともに、「絶対的なファンタジー」を再現して行く予定である。


思いのほか、号外は長くなると思う。気長に付き合っていただければ幸いである。次稿に期待されたい。