その夜の貴女は、いつも通り凛としたパンツスーツ姿だった。
席ではハイボールが続き、さらに高級なシャンパンも盛んに開いて、卓上は華やかに盛り上がっていた。「お姉さん飲んで飲んで」こんな時にお酒が飲めるのが強味の貴女もずいぶん飲んでいた。
貴女はさりげなく席を立った。しばらくして席に戻ってきてからも、お客様と笑顔で会話を続けながら、時折、トイレの方を見ているのがわかった。トイレが空いていなかったのだろう。こんな時の私たちのタイミングは難しい。脚を組んで普段と変わらずお客様と話している貴女を私は時々横目で見ていた。普段隙を見せないチーフでもこんなことあるんだ。ハイボールもそしてシャンパンもずいぶん飲んでいたし。
私はこのとき,チーフはどうするのかな,と思って見ていた。正直に言うと少しだけ,チーフが困るところを見てみたいという気持ちもあった。
間合いを計り、貴女はもう一度そっと席を立ってトイレに行った。心なしか少しぎこちない歩き方。「あら。まだ空かないの。チーフお気の毒」エリカ達の嬌声が聞こえた。チーフの低い声も聞こえた。その時にわかった。トイレを塞ぐなんて信じられない。なんて低次元な嫌がらせをするんだろう。でもお客様もいる前で口論は出来ない。貴女が黒服に手を挙げた。私もそっと立ってトイレに方に向かった。
まさにそのタイミングだった。VIP団体様の「お見送り」となってしまったのだ。 一瞬、貴女の少し険のあるある奇麗な眉が苦しげに歪み、激しい逡巡が走るのを私は見た。でも貴女は,一行の中には女性客も混ざっている。ひどく乱れて手がかかるようなお見送りにはならないはずだ、と貴女は判断したのだろう。そして、いつものようにタクシーは店の前にすぐ横付けされているはず、そう踏んだのだろう。
外へ出た。私もその後ろに付いた。運命は残酷だった。待てど暮らせど、タクシーが来ない。お見送りの時間はじりじりと長引いていく。貴女の顔が次第に蒼白になっていくのが分かった。店に戻る口実が、頭の中で駆け巡っているのが手にとるように分かった。だけど、プライドがそれを許さない。「駄目、こんな嫌がらせに負けない――」そんな強い意志が、その横顔から悲壮なまでに伝わってきた。
貴女はパンツスーツの浅いポケットに、両手を深く差し入れて中で拳をきつく握りしめ、必死に平静を装おうとしている。
だけど、もう限界の波は隠しきれなかった。スーツパンツの生地越しからでも、お尻の筋肉を固く、固く引き締め、身を震わせて耐えているのがわかった。
「ねえ見て。あのお姉さん絶対おしっこ我慢してるよ。あたし気になってずっと見てるの」酔って声が大きい女性客が隣の客に少し笑いを含んだ耳打ちがタクシー乗り場に聞こえた。「もうもれそうなんじゃないの?可哀想。」多分その場の全員に。そして貴女にその声が聞こえていました。あまりに残酷でした。
貴女の肩が震えるのがわかった。あまりの屈辱と、耐えられないほどの羞恥。ポケットの中で、爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめて耐えている貴女の目の前が、絶望で暗くなっていく。全身の小刻みな震えが、もうどうしても止まらない。
そして――限界は、タクシー乗り場でお客様の面前に並んでいる、その最中に訪れてしまった。
凛としていたはずのパンツスーツの股の間から、堪えきれなくなった一筋の雫が滴り、やがてそれは容赦なく広がっていった。アスファルトにシミを作っていくその光景を、私はただ、息をのんで見つめることしかできなかった。お客様たちの視線が一斉にそこに集まる。思い出すだけで、胸が苦しくなるほど可哀想で、残酷な情景。その後のことはもう書きたくない。
それなのに、あの極限の状態で、パンツスーツを固くして必死に耐え、そして崩れ落ちてしまった貴女の無残な姿を繰り返し繰り返し私は思い出している。エリカ達への身体が震えるような怒り,気の毒な貴女を守ってあげれなかった後悔,でもそれだけではない何か。忘れすべきなのに申し訳ない,いけないと思いながら繰り返し思い出している。