さて大蔵貢が1957年位から始めた、企画第一主義は(エログロ路線)となり社長就任後半年で、黒字転換を果たします。

タブーに挑戦して、天皇陛下を登場させました。

それまでの映画は(スターシステム)と呼ばれ人気スターにあつらえた脚本で興行していました。

大蔵貢は(名企画なくして興行の成功はあり得ない)とし、就任時在籍していた俳優や監督は離れますが、自身の方針は曲げません。そしてワンマン体制を作り上げます。





色々批判はありましたが、映画作りの基本はおさえた政策でしたので、現場もついてきたのでしょうね〜。

しかし、この男は行儀が悪い!

弟の歌手の近江俊郎が1946年(悲しき竹笛)が大ヒットした勢いもあったのでしょうが態度がデカい!

黒塗りのキャデラックで部課長を並ばせて出社。月に2回、箱根都熱海で大宴会。個人的に女優を妾扱いしたとの事です。

1960年には(高倉みゆき)との関係を聞かれた時に(女優を妾にしたのではなく、妾を女優にしたのだ!)と訳わからない言い訳ですが、名言として残っています。

貢の気に入った監督で、気に入った女優を主役にして映画を撮る強引さは、映画は企画だとする手法ではやりやすい状況でした。


今見ると笑ってしまう様なストーリーが当時はセンセーショナルな話題になったのは理解できます。貢が企画(脚本を選び、キャストを決めて、スタッフを揃えて、スケジュールを決めれば)撮影ができて、配給して上映館にかける一連の流れを貢が決定・実行できるのですから並行しつ月に2〜3本は作れますよね。




1960年に(ニュー東映)との資本合併を画策して破談に、大蔵が第二撮影所を自身の所有の(富士映画)に売却していた事で労働組合が24時間ストを決行。
貢は社長を解任されます。
新東宝は再建できずに倒産してしまいます。
続く。