白組キャプテンの柳家金語楼の後は、紅組は❓と水の江瀧子さんの登場です。


水の江瀧子 1915年 北海道産まれ
本名は(三浦ウメ子)さんです。

2歳の時に東京に来ます、渋谷・目黒がまだ村だった頃です。

1928年 東京松竹楽劇部に第一期生で入学。
その時は、姉が勝手に応募していたので、(なんとなく華やかな方向)に行けると思った程度だったと言います。

入部後は、日舞、洋舞、声楽の基礎訓練を受けて芸名(水の江たき子)を与えられ初舞台に! 
13歳の時ですね〜。
ポスターの芸名が(水の江瀧子)だったので、その表記で定着したそうです。

まだ子役の瀧子に始めて化粧をしてくれたのが(笠置シズ子)だったとの事で、その後二人の交流が続きます。

1930年 東京松竹は(松組)(竹組)に分かれ、瀧子は(竹組)に属します。
翌年(先生様はお人好し)で、断髪して(謎の美青年)を演じました。

この役で人気沸騰! 
千秋楽は楽屋がファンで溢れたそうです。
元々、瀧子は身長が高く群舞で目立つため、幕前で踊る小さな役を割り当てられたのが(謎の美青年)だったとの事で、当時から輝いてたんですね♥

1931年11月 新歌舞伎座の公演、(万華鏡)でカウボーイを演じた瀧子が名を問われ(俺はミズノエ・ターキーだぁ!)って見得を切る。
そして、(ターキー)の愛称が産まれた。
男装の麗人の伝説の始まりです。

1932年には瀧子の応援会(水の江会)の第一号パンフレットが出来ました。
賛助会員には、西條八十、谷幹一、田中絹代、川口松太郎、山田五十鈴、メイ牛山等が名を連ねました。

当時、宝塚少女歌劇と東京松竹は競っており、世間では(上品な宝塚、大衆的な松竹)と言われて公演が続き、出演者が過労で倒れる程でした。
待遇改善を求める団員と、経営陣の団体交渉になり、水の江瀧子は争議団委員長として演説します。
警察も入る騒動の末に松竹は待遇改善して、本社直属の(松竹少女歌劇団)に替えて存続する事で落ち着きました。

水の江瀧子は(タンゴ・ローザ)で松竹の舞台に復帰、大好評を受け、160回の上演記録、(松竹レビュー創生以来の傑作)と呼ばれました♥
(水の江会)の会員も二万人を超えて絶頂期を迎えます。
当時の熱狂は、詳しい方にお任せして、

ジェスチャーの紅組キャプテン、(紅白歌合戦)の紅組司会も務めて、1954年より日活と契約して、初の女性プロデューサーとなります👏


日劇ミュージックホールに出ていた岡田眞澄を映画にスカウト、フランキー堺、浅丘ルリ子も発掘した。
そして運命の、出会いが1956年芥川賞を受賞した(太陽の季節)の映画化で、石原慎太郎の弟と出会う!
それが(石原裕次郎)です。

瀧子は裕次郎主演で(太陽の季節)の映画化を企画しましたが、会社側の反対で、端役に回されました。
瀧子はその端役の裕次郎のアップをスチールにして売り込んだ!

この映画の出来に不満だった瀧子は、次回作に裕次郎を主演に監督は、中平康を起用(狂った果実)を撮ったんだそうです。

私も、この2作を何度も観ました。評価通り(狂った果実)の完成度が高いと感じます。小説としては、(灰色の教室)が一番ニヒルでかっこ良いのですがね〜。

水の江瀧子さんのプロデューサーとしての能力の確かさを皆が認めた頃ですね。
倉本聰を、日活に招いたのも瀧子さんだったんですね。
その後の瀧子の活躍は昭和の映画史と同等です。

2009年 94歳で生涯を終えました。 
独身を貫き、家族に恵まれたとも言い難い生涯でしたが、(なんとなく華やかな方向)として三浦ウメ子さんが選んだ芸能界は、ご自身にぴったりの、世界だった事は間違いありませんね〜。

私は、争議団委員長として演説する水の江瀧子さんの格好良い姿を目に焼き付けて偲ばせていただきます。
合掌