今日は、お昼前にホンの数分だけ頭を見せてくれましたが、それ以外はずーっと隠れてました…。


13:30頃:隠れてるとこ(^_^;)




さて、美術作品シリーズ3回目、
室町時代(1392~1573)編です(^-^)/


この頃になると、富士山そのものを題材にした絵画が出てきました。

その中でも、後世に大変大変大きな影響を及ぼす歴史的作品が1,500年代初めに生まれました。

中国帰りの新進気鋭(?)の画家、雪舟(1421-1507)の作と伝えられる水墨山水画、“富士三保清見寺図” です (^-^)/

構図は、中央に富士山、左に清見寺、右に三保の松原。現在の日本平からの景観と考えられます。

中国から始まった山水画は、山を霊的な存在と捉えて、山、水、寺、樹木等を描く風景画ですが、創造された景色であることが多いそうです。

そんな中で、実在する景色として、これ程までに山水画の理想的な構図となっている場所は珍しいらしいそうですよ。


例によって、この時期の富士山の噴火活動と、富士山の文化的背景を少し振り返ります (^-^)/

前回、平安末期1083年を最後に噴火活動は一旦沈静化し、次第に富士山が畏れ拝まれた存在から、宗教的な修行の場へ変化していったと書きました。

噴火活動としては、その後1435年に山梨県側で溶岩流を流出させる穏やかな噴火が起きたと考えられる記述が、山梨側のお寺の史料に記載されているのみ。

ただ、噴火の恐れが薄れたとは言え、当時の人びとにとって、「火口から煙を吐く日本一の活火山を観光しよう!」と言う発想は無く、

「浅間大神(あさまのおおかみ)をお祀りしたことで、神様のお怒りが鎮まり、大変ありがたいこと m(__)m」と考えていたのかなぁ…と想像します。

また、修行の場としての富士山は、1,400~1,500年代には “庶民” も登るようになったようですが、あくまでも「修行者に引率された礼拝」であり、登山では無く登拝でした。

現在にも残る登山道は、いずれも1,300年代~1,400年代後半に出来上がったようです。

すならち富士山は、畏れ拝まれた存在(神) → 宗教的な修行の場 → 一般庶民も心の拠り所とする山  へと変化した   …の   かな?   きっと (#^.^#)


この時期の富士山の絵として、これまた鉄板中の鉄板は、その登拝の様子を描いた、
“絹本著色富士曼荼羅図”
(けんぽんちゃくしょくふじまんだらず)


これも1,500年代前半の作で、狩野派二代目の元信の作と言われています。

絵の下には、清見寺、三保の松原、富士川の渡し舟等の富士山周辺の景色である俗界。

中間には、登拝前に富士宮にある富士山本宮浅間大社の湧水で登拝者が身を浄める姿、登拝で訪問する社殿、装束まで詳細に描かれた登拝者が描かれた、俗界と神仏領域の中間の世界。

そして上部には、月と太陽が描かれ、如来様のいる山頂。ここは神仏の世界、すなわち死の世界。

登拝とは、俗界から死の世界を往復することによって、この世の罪と穢れを消すことを意味したそうです。

この絵は、絵によって富士山登拝を説明することで富士山信仰を世間に広める、宗教法人のパンフレット、または富士山観光ポスターですね (#^.^#)

とはいえ、

現在のように新幹線とバスで五合目まで移動して最後の1,000mちょいを登るのとは大違いで、

例えば京都からだと、旧東海道を約350kmの旅をして、標高ゼロから3,776mまで登って、また350kmを帰る。

どんな旅支度だったのか?  どんなどんな食事をして、何日かかって、いくら必要だったのか?  道中の治安はどんなものだったのか?

ん?  そういえば、
室町時代に旧東海道はあったの? (・_・?)

きっと命がけの参拝だったんでしょうね。


旅行保険ってあったのかな?(#^.^#)



おしまい