今日は、少~しだけ見えましたけどね、山頂の雪、すでに融け始めて、山肌が露出~ (×_×)


13:00頃
ま、週末にまた降るのかな…。




さて、

今日は、富士山美術作品シリーズ第2段で、鎌倉時代編です (^-^)/

前回、空飛ぶ聖徳太子が描かれた平安時代の1069年は、頻繁に噴火を繰り返す富士山は、畏れ拝まれる存在だったと書きました。

その噴火活動も、1083年の噴火を最後に一旦沈静化し、12世紀以降、山を信仰の対象とする古来からの日本文化の通り、富士山は次第に宗教上の修行の場となっていきます。

また、この頃、日本はちょうど鎌倉時代に入り、鎌倉と京を行き来する旅人が増え、富士山は異郷の地にある想像の山から、実際に目にした旅人から語り継がれる現実の存在になりました。

よって、鎌倉時代に描かれた富士山は、平安時代に描かれた聖徳太子絵伝でのシンボリックな、または空想的な形から、より実物に近い景観が描かれるようになったようです。

『遊行縁起』(遊行上人縁起絵) 第八巻 真光寺

緑の山体にいくつかの沢が刻まれ、山頂部に真っ白な雪。まさに僕が毎日撮影している富士山ですよね♪

ただ、この頃は富士山を描くと言うよりは、物語や伝記を絵画で表現する時の背景にされる事が多かったようです。

そして時代は室町時代へと移っていきますが…

ここからは第3段でご紹介します(#^.^#)


時代背景はもちろん、火山の活動状況も合わせて、日本人にとっての富士山の位置付けが変化し、描かれる富士山も変化していく…。おもしろいですよね (o^-')b !



おしまい