妻の妹が遊びに来ました。
いつも、犬を連れてきます。
「もん」ちゃんと言うのですが、まーちっとも可愛くない。
可哀そうなので、ジョイ君が遊んでくれています。
なんか、仲が良いのか、いじめられてるのか、分からない感じなんだよね。
まあ、もんちゃんも逃げないから、楽しんでるんだろうけど。
妻の妹が遊びに来ました。
いつも、犬を連れてきます。
「もん」ちゃんと言うのですが、まーちっとも可愛くない。
可哀そうなので、ジョイ君が遊んでくれています。
なんか、仲が良いのか、いじめられてるのか、分からない感じなんだよね。
まあ、もんちゃんも逃げないから、楽しんでるんだろうけど。
昨日の続きですよ。
花粉症がここまで深刻化した背景には、戦後の日本の林業政策が深く関与しています。
安易な減反政策と一緒で、安易に始まった植林事業が、日本の生態系を損ない、さらには国民の健康に甚大な被害を及ぼしているのです。
戦後、農林水産省は、経済復興の一環として、膨大な木材需要に応えるために、スギの大規模な植林を推進しました。
スギは成長が早く、建材としても優れているため、全国各地で広く植えられることになりました。
私も、母方の実家が新潟県にあって、春休みに遊びに行くと、近くの山で、杉の枝落としを手伝った記憶があります。
植林して数年で、その時の自分の背丈よりも少し大きいくらいになったくらいの、若い杉の下の方の枝を切り落としていくのです。
ノコギリでギコギコやるたびに、木がゆっさゆっさ揺れて、そうすると、枝中から黄色い花粉が煙のように舞い上がって、そのたびに、暫く視界がセピア色になって何も見えなくなる位でした。
しかし、この政策は短期的な経済効果に偏重しており、長期的な環境への影響や、多様性に富んだ日本の森林生態系を考慮することはありませんでした。
これにより、元来存在した雑木林が次々とスギに置き換えられ、日本の豊かな自然環境が大きく変容してしまったのです。
さらに、時代が進むにつれて国内の木材需要は減少し、輸入材が増えたことで、植林されたスギの多くが放置されることになりました。
田舎の祖父は、「勧められたとおりに、雑木林を伐採して、あれほどたくさん杉をう植林したのに、これhではいくら立派な成木になっても、木材にするためには、切り倒したり、製材所に搬入したしするだけで、ものすごいお金がかかるから、1円の利益にもならない」、と諦め顔でした。
でも、放置されたスギは、ますます成長して、大量の花粉を飛散させるようになります。
かくして、スギ花粉は、「国民病」とも言うべき状況を引き起こすようになりました。
政治家や官僚の見通しの甘さや、短期的な利益を優先する姿勢が、今日の国民的な健康問題をもたらしたと言えます。
このような状況に対し、この政策を推進した当事者は、責任を認識しているのでしょうか。
存命している人も少ないでしょうが、責任を問われても、多分、「私たちは、上の指示に従っただけだから。」と言うでしょうね。
今になってようやく、国は花粉の少ないスギへの植え替えや広葉樹の導入を推奨しているようですが、そのペースはとても遅いようです。
何より、それらの施策が成果を上げるには時間がかかります。
中学生の時、通っていた近所の学習塾で、この問題に関する論説文を読んだ記憶があります。
どんな人が、どんな場所で書いたものかは覚えていません。
ただ、その論説文の内容は結構衝撃で良く覚えています。
その筆者はスギなどの画一的な植林政策を問題視していて、それによって、かつての森林の多様性が損なわれ、土砂災害や害虫被害など、今に大変なことが起きるのではないか、と警鐘を鳴らしていましたのです。
もう40年近く前のことですが、その当時、そんなことを考えている人がいたのですね。
その後、みんなで答え合わせをしている際に、塾の先生が、「まあ、この筆者も、『大変なことが起きるかもしれない』と不確定な事しか予想していないわけで、自然に関して未来を予測することは難しいもんだよな。」と言っていました。
それを聞いて、私は、「ああ、良かった。『起こるかも知れない』ってことは、『起こらないかも知れない』ってことだよな。」と安堵したのですが、まさに、予言の通りに起こってしまっています。
しかも、それが土砂災害ではなく、「花粉症」という、誰も全く想像もしなかった形で。
これは、生態系の多様性に安易に人間が手を加えると、誰も予想しなかった結果を招くことになる、という良い例だと思います。
そして更に言えば、日本では、アレルギー薬の開発が非常に積極的に進んだ背景も、スギの植林事業に端を発するのです。
「風が吹けば桶屋が儲かる」ではありませんが、農家が山にせっせと杉を植えていたら、日本の製薬業界が大儲けしたという、予想だにしない結果になったわけで、これもある意味、生物の多様性を示すものかも知れません。
昨日、コメ不足に関する農政の言い逃れについて書きました。
その流れで、もう一つ、言いたいことがあります。
毎年春になると、多くの日本人が苦しむスギ花粉症の問題。
花粉症は、もはや日本の「国民病」と言っても良いかも知れません。
昔、クイズ番組で、「韓国のテレビの天気予報では、日本では考えられないような予報があります。それは何でしょうか?」という問題を見たことがあります。
その回答は、「キムチの漬け時の予報」だったのですが、誰も予想していなかった答えに、出演者からどよめきが起こっていました。
日本では、この時期、天気予報の中で、必ず「花粉症情報」というのも一緒にやっています。
もしかしたら、どこかの国のテレビ番組では、これが日本独自の文化として、既にネタとして取り上げられているかも知れません。
では、何故日本にだけ、スギ花粉症がこれほど広まっているのでしょうか?
このまま続けようと思ったのですが、長くなると、離脱する女子が急増するので、今日はここで。
続きは明日のお楽しみ。
おはようございます。
まだ5月じゃないけど、五月晴れ。風が爽やか過ぎて驚くほど。
ただ寝覚めが悪くて…。
夢に、安田顕が出て来た。
昨日の大河ドラマの平賀源内。
凄かったんですわ。
今日は、夢に出て来た人が日本中で沢山発生してるんじゃないですかな?
部屋に籠って、机で作業していると、階段をとことことゆっくり上がる音がして、ボーちゃんが現れました。
そして、黙って、私の机に寄りかかって、じっとしています。
私が話しかけても、一切無視。
これは、妻がお風呂に入っているサイン。
こういう時だけ、私の側に寄ってくる。
そして、暫くすると、また黙って出ていく。
それは、妻が風呂から出たサイン。
音がするのか、臭いで分かるのか分かりませんが。
昨年から、コメ不足が指摘されています。
それについて、政府の発表では、大体こんな感じです。
①米は十分に足りている。
②米の値段高騰は、仲介業者による買い占めなどが原因。
③減反政策は、もうとうの昔に廃止している。米を作るか作らないかは、全て農家の自由なので、国の管理外。
④今後も適宜、政府が管理している備蓄米を放出するので、国民の皆様は、何も心配しないでください。
こんな記事を読みました。
私のブログよりもずっとずっと長い。
長いだけではなく、難しすぎて、全然分からない。
ただ、私が理解出来たことも有ります。
①かつて、米は全量を国が買い取って管理していた。
②その代わりに、米価は毎年国が決めていた。
③生活スタイルが変わり、米の消費量が減る一方で、技術の向上により生産量は増える一方で、農林水産省が大量の米の在庫を抱えてしまって、その在庫処理に大変な労力とお金を割くことになった。
④そこで、米の買い取り量を制限しようとした。
⑤そしたら、農協が「全部買い取れ!」と断固抵抗した。
⑥農水省よりも農協の方が力が強いので、買い取り制限案は頓挫。
⑦その代わりに、「休田にしてくれた農家にはお金出しますよ!」というキャンペーンを始めた。
その結果、国が買い取る量が自然に減り、農林水産省の役人も在庫処理に困らなくなった。
これが減反政策の始まりのようです。
え?こんな小っちゃいことで??って思ってしまいました。
米の価格維持のため、とか、米農家の生活を守るため、とか全然、関係ないじゃん。
結局、自分達の仕事減らすために、金ばら撒いてただけやんか。
俺たちが社会科の授業で習ったことは一旦なんだったんだ??
それにしても、今のお米の問題。
職員同士の会話を盗み聞きしていると、「お米が高くて・・・」とお互いに嘆いているのを耳にします。
冒頭の、国の発表は、本当でしょうか?
本当にお米は足りているのでしょうか?
農協の圧に屈する形で始まった減反政策は今の状況と本当に無関係なのでしょうか?
なんか、こういう発表聞いてると、、戦時中の政府発表みたいに思えて来ます。
いくら「戦争は勝ってるから、国民は安心するように」と発表されても、本土が空襲されまくって、沖縄が占領されて、現実は正反対に動いていたわけで。
失敗を認めるわけには行かないのかも知れませんが、80年経っても、日本の官僚組織の思考回路って何も変わってないんだなぁ、と痛感します。
今日は、一日中、診察室に座っていたので、ちょっと運動不足かな、と。
だから、夜道を散歩に。
1人じゃちょっと物騒なので、ジョイ君をお供に。
2匹連れて行くと、面倒臭いので。
良い時間でした。
帰って来たら、ジョイ君は、ぐったり。
このへそ天は、最早御家芸だな。
明日も頑張ります
昨日の外来。
夕方、古い患者さんが来られて、軽く雑談に。
「Tさん、今日はなんか元気そうですね。」
「だって先生、今日は金曜日ですよ。明日から休みですもん。そりゃ嬉しいですよ。」
「あ、そうですね。確かに明日から休日ですね。1週間お疲れ様でした。連休は何か予定はあるのですか?」
「明日の土曜日は、友達とランチの約束してるので、買い物兼ねて出掛けるんですよ。」
「ああ、良いじゃないですか!日曜日も予定が?」
「いえ、日曜日は家で大人しくしてます。だって、月曜日からは仕事ですから。」
「ああ、なるほど。月曜日に備えるのですね。」
「はい。でも、日曜日の夜の憂鬱さは、本当に嫌ですよね。特に「世界の果てまで行ってQ」が終わる頃になると、鬱になってしまうんですよね。先生、あれ、何とかならないものですかね?更年期症状でしょうか?」
「ああ、それは、更年期ではないと思います。」
「ですよね。」
「でも、その鬱状態を一瞬で解消する魔法の方法がありますよ。」
「え?本当ですか??その魔法の方法教えて下さい!」
「休まない事です。」
「は?」
「だから、仕事休むから、仕事行きたくなるんですよ。だったら、休まなければ良いんですよ。そしたら、一瞬で鬱症状から抜け出せますから!是非試して見て下さい!」
あれ?
おかしいな、
私は大得意で話したのですが、Tさんは、怪訝な表情を浮かべて帰って行かれました。
小学生時代、学校で誰もが使っていた鉛筆。
鉛筆の芯の規格により芯の硬さによって、17種類もあるそうです。
軟らかい順から、6B、5B、4B、3B、2B、B、HB、F、H、2H、3H、4H、5H、6H、7H、8H、9Hの記号が付けられています。
軟らかい芯の「B」はBlackの頭文字B、硬い芯の「H」はHardの頭文字。HBは、丁度中間ということだと思います。
ちょっとマイナーでも、たまに使っている人がいると何故かお勉強が出来る感があった「F」ですが、これはFirm(ひきしまった)の頭文字だそうです。
でも、平均的な小学生は、HBの鉛筆を使うもの。それが当たり前でした。
ところが、最近、違うらしい。
数か月前に、NHKの「突撃かねお君」という番組でやっていたのですが、最近はHBよりも、2Bあたりの太くて軟らかい鉛筆が売れ筋なのだそう。
調べてみました。
これは老舗鉛筆メーカー「トンボ鉛筆」(本社、東京都北区)が発表しているデータを基に、私が勝手に作ったものです。
1999年はHBが43%、2Bが22%、Bが21%でしたが、20年後の2019年には2Bが51%、HBが20%、Bが17%と、トップシェアはHBから2Bに逆転されてしまっています。
2B鉛筆がHBに追いつきそうな傾向が初めて認められたのは2006年のことで、その後、2009年までほぼ同数出荷が続き、2010年には完全に同数出荷に。
そして2012年、遂に2BがHBをわずかに上回り、そこからは、どんどんHBを引き離し、現在に至るそうです。
突撃かねお君によれば、この理由は、スマホの普及で、小学生が文字を書かなくなり、腕の筋肉が低下してしまい、筆圧が弱くても書ける鉛筆が好まれるようになった、ということでした。
これは衝撃でした。
私が通っていた小学校では、シャープペンシルの使用は禁止されていました。
5年生か、6年生の頃。
ある日、誰かお友達がシャープペンを学校に持ってきて、それを担任の舟橋先生に見つかって怒られていました。
その時、舟橋先生がこんな風に言っていました。
「君たち、なんで小学生はシャープペンを使っちゃいけないか分かるかい?シャープペンってのは、力を入れなくてもすらすら書けてしまうんだよ。でも鉛筆は力を入れなければ書けない。それが君たちの脳を鍛えるんだよ。指先に力を込める事によって、それが脳の細胞を刺激して、脳細胞を活性化するんだよ。だから、今成長期にある君たちが、今シャープペンを使うと脳が活性化されずにバカになってしまうんだよ。」
それを聞いて、子供心に、「これは、尤もことだ」と思いました。
だから、私はその教えを守って、中学生になるまで決してシャープペンを使いませんでした。
でも、Bの鉛筆はシャープペンよりも、ずっと力入れないで書けてしまいます。
これはヤバい事ですよ!
スマホで鉛筆を持つ事が無くなったら、どんどん指先からの脳の刺激がなくなって、皆バカになってしまうのではないでしょうか??
小学生諸君!HB使いましょう!
フォローのつもりなのでしょうか?職員からこんな事を言われました。
「もっと、犬の事書いて下さいよ~。ジョイ君、ホントに可愛いですよね~!」
「奥さんのネタを書いてくれたら、もっと読むんですけどね・・・。」
別に、おめーらに媚びるつもりはない。
でも、やっぱり、市場の動向は気になるものです。
「女子は長い文章が嫌い」という原理原則は承知しているつもりです。
でも、それに素直に阿ってばかりいると、本当に軽薄短小なシロモノになってしまいます。
中身スカスカな芸能人みたいになってもつまらない。
平賀源内が、不遇の中、死ぬ1年前ほど前に書いた「放屁論後編」の中に、「自分が行ってきた仕事は、とても革新的な事ばかりなのに、世間は全然理解してくれない」と、ボヤキの文章を残しているらしいですが、ちょっとそれを思い出しますな。
20代以下を対象にするのか、それとも、50代以上を対象にするのか、読み手は女性のみを想定するのか、それとも、性別関係なく受け入れられるものにするのか、それだけで全然違って来る。
10代の高校生に、北島三郎の演歌をいくら聴かせても響かないし、60代のおばちゃん世代にYOASOBI聴かせても急がし過ぎてついて行けないだろう。
だから、迷ってもしょうがないんです。
敢えて、誰かに寄せない。
自分が良いと思うものだけを直球ストレートで投げるのが一番良いと思っております。
それが受け入れられるか受け入れられないかは、あとは時の運。
あれ、オレ、今なんか良い事言ったかも