昨年末、参加している「キャノンフォトサークル」でのフォトコンテストに応募した。


サークル加入して初めて届いた会報誌、フォトコンテストの募集ページが目に止まった。


確か締め切りギリギリ。そしてポートレート部門の選者が、尊敬する阿部了さんだと知った。



阿部了さんは、私の愛読書「おべんとうの時間」の写真家です!



このタイミングで、この写真家!

「出してみよ」と、これまで撮った写真の中から見繕って、気軽に応募した。



先日、会報誌の中で受賞の発表があった。



受賞はならなかったけれど、応募総数312点の中の、最終選考に残った20名ということで、私の名前と作品タイトルが掲載されていた。










めちゃくちゃ嬉しかった!!




あの阿部了さんが、私の写真を見てくれた! そして20名に選んでくれた!!




そのことをSNSに投稿したら、沢山の方からお祝いのコメントをもらって、また嬉しかった。








実は「写真、やめようかな」と思っていたタイミングだったんだよ。




ちょっと前、私も製作に関わらせてもらっている冊子の、表紙写真の撮影をした。

撮った写真は自分が納得できるものではなかった。依頼者の依頼内容に沿う写真は、撮れなかった。



色々考えた上で、撮り直しをお願いした。

モデルさんなど、沢山の方のスケジュール調整や、撮影場所の選定のし直しなど、いっぱい迷惑をかけることになる。





そんなこんなで、写真が怖くなってしまったんだよ。





趣味としては撮っていくだろうけど、オーダーされてお金をいただくのは、もうやめようと思った。

「撮ることより、撮られる方に興味出てきてるし」。そんな理由を自分に言った。

写真家と名乗るのもやめようと、インスタのプロフィールからもその肩書きを削除した。






今回、フォトコンで嬉しい結果をもらって、

「これからも写真、やってもいいよ」と言ってもらった気がしたし、少しの自信にもなった。「あの阿部さんが、私の写真を残してくれたんだから」って。




それに、自分の得意分野や、どんな写真だったら撮れるのか、を確認することにもなった。





私は、阿部了さんみたいな写真が撮りたいんだよ。

その人物そのままを映し出す写真。

その人の命の営みや煌めきを感じさせる写真。

たった一枚の写真から、沢山のことを伝えてくる写真。

温かい気持ちになったり、苦しい気持ちになったり、見る人の感情を動かす写真。

ずっと見ていたくなる写真。





「おべんとうの時間」より。




私はそういう、言ってみれば「人間臭い写真」しか撮れないだな、とも思った。

それが自分の写真だし、自分を生かした写真だし、自分の得意な写真。





私が得意なのは、目の前の人とのコミュニケーションなんだ。言葉だけのコミュニケーションではない。その人の本質を感じ取ること。それを透明な心で受け止めて、シャッターを切るという、コミュニケーション。




プロフィール写真のような、沢山、修正を施す、いわゆる「キレイな」写真は多分撮れない。

だいたい、Photoshopが使えない。一度トライしたことがあったけど、挫折した。




沢山のカメラ機材も使えない。

だいたい持ってないし、あんなに大きくて重量のあるものを、持ち運びたくない。

レフ板すらも持ってない(1人で撮影するのに、レフ板持ってくれる人いないしな)。




私が持ってるのは、カメラ本体1つと、レンズ2個。それだけ。

(レンズはもう一つ、あってもいいなと思うけど)





カメラ一つを携えて、太陽の下で、その人の素を撮る。

それがしたいし、それしかできない。






これからは、自分の撮りたい写真、撮れる写真を、依頼主にちゃんと説明しよう。それでも依頼してもらえたら、撮らせてもらおう。

そう思う。





一見、自分の写真の世界を狭めたように思えるけど、私の感覚としては、広くなったし、濃くなった。




フォトコンに応募してよかった。

阿部了さんが選者でなかったら、応募していなかった。

たまたまのタイミングで、このフォトコンがあったことは、写真について考える機会を与えてもらった私へのギフトだ。



最終選考に残った私の写真「母の歓び」。



田中えり