お久しぶりのアメーバ。
前回書いたのが去年の12月。あれからもう、半年。

この半年間で、私の生活環境はがらりと変化した。
簡単に言ってしまえば、それまでの私の生活の全てだった様々日常が終わって、
そのあとに全く知らなかった新しいことが始まった。

学生から社会人に変わった、とか、そういうことじゃない。
私はまだ学生だ。一応は仕事に就いていて、働いた分だけお金をもらって、そのお金で日々生活しているけれど、
仕事内容を見てみれば私にかかる責任なんて皆無に等しくて、何よりも今はまだ自分のためにしか働くことができてない。
社会人一年目なんてこんなもんだ、と思いながらも、やっぱりもどかしくてしかたない。

早く、一人前になりたい。一人前がどんなものか知りはしないけれど。



これでいいのかな、と思っていた。
だけど今は、これでもいいかと思うようになった。

結局何が正しいのかなんて、どれだけ考えてみても、わからないものなんだよ、きっと。
だから、変に今の流れに逆らったり、無理したりしないで、
わたしをとりまく環境に、そっと身を委ねてみようと思うの。



いつだって、自分を偽っているような感覚が拭えない。
本心で話しているつもりでも、他人の目を意識していた。
自分で考える時だってそうなんだ。自分のものさしが、自分の中にない。
環境に左右される。そうやって自分が形成されてきたんじゃなかろうか。

優しい人間でありたいと思うけれど、そういう願いを意識しながら発した言葉たちは、
とても後味が悪い。


私が素直になれる瞬間って、いつだろう。誰といる時だろう。何をしてる時だろう。
この一瞬が永遠に続けばいいと思えた瞬間。
そんな瞬間が、今まで何度あっただろう。これからあと何度訪れてくれるんだろう。

それを想像できる人はきっと強い。

わたしはまだ、うまく想像できないんだ。
理想を描けるようになりたい。すべてはそれからなんじゃないかと、思う。



一人暮らしを始めて、一ヶ月。

朝目が覚めても、仕事を終えて帰ってきても、ご飯を食べるときも、
日常のあらゆる仕草の中に、誰もいない、ということ、
わたしひとりだけが、ただ淡々と生きるための活動をこなしていって
わたしが動く以外には何の変化もないまま、毎日が繰り返されていく、

ということに、少しずつ慣れてきた。
慣れてきた、というよりも、理解したと言った方がいいかもしれないな。
ひとりで生きる、ということがどういうことなのか、理解し始めた。
時間とともに、忘れていくこと

忘れたいのに、忘れられないこと


忘れないように、記録や記憶に留めること

忘れていたのに、ふとした瞬間思い出すこと


きっと どれも大事
家ってなんだろう、ってずっと考えてきた。

「ねむるところ」「帰るところ」「よりどころ」「身を守るところ」
いろんなひとが、いろんな家観を示してきて、
わたしたちは、それを知り、そこから学び、自分なりに消化して
「この人はこう言ってる。じゃあわたしはどう思う?」
それを繰り返してきた。

今、わたしが見つけた、一つの答えは、
家とは、朝、目を覚ますところ、
つまりは、「一日のはじまりに、いる場所」

これが、家なんじゃないかと思ってる。

動物学的にも、きっと目覚めの瞬間って、一番無防備な状態。
わたし自身、寝起き悪いしね。

そんな瞬間に、同じ空間に、一緒にいること。
ここに、ものすごい価値があるんじゃないかって思う。

この経験をずっとずっと、共に積み重ねてきたひとたちのことを
「家族」って呼ぶんじゃないかなって。
そういうのが、先祖代々続いてるんじゃないかなって。


田舎のおじいちゃんが亡くなって。
一回忌に、家族で向こうのお家に行って、一泊してきたの。

そこで、おばあちゃんがね、
朝起きて一番に、亡くなったおじいちゃんに挨拶するの。
これ、普通のことかもしれないけど、私にはすごく新鮮で。
おじいちゃんに挨拶してるおばあちゃんの後ろ姿が、今でも印象に残ってるんだ。

死とともに、一日がはじまる。わたしは今日も生きていく。

これが、家の意味なんじゃないかなって。

そう思ってます。


もちろん、人間には、いろんな矛盾とか不条理、孤独とか、時には狂気とか、
醜いところがたくさんあって。
絶対にそこから眼をそらしちゃいけない。
きちんと向き合わないと、どこかでなにか大切なことを見誤ってしまう。

きちんと向き合った上で、
それでも、「自分はこうありたい」「建築ってこうなんじゃないか」
という理想を掲げてほしい。
見つけてほしい。
見失わないでほしい。

私達は、ケモノではなく、人間だから。
人が、人として、この世界で、生きる。

それがどういうことなのか、常に考えていてほしいな、と。


想われることに、慣れない。

どうしたらいいかな。

たぶんきっと、同じ気持ちなんだよ。
うぬぼれかもしれないけど、きっとそうなんだよ。

たとえもし違ったとしても、
わたしはそうなんだよ。

でも、どう行動していいかわからない。

こわい。
嫌われるのが、こわい。


でも、なにもないままは、もういやだよ。


おねがい、神様。
チャンスをください。


インターネットという強力なメディアを手に入れた現代を動かしていくのは
ボランティア経済だ、と。




資本主義の時代は、たぶんもう終わりに向かっている。
そのことに多くの人が気づき始めてる。

資本という共通の社会基盤が持つ価値を、多くの人が信じて疑わなかった。
現実を生きていれば嫌でも突きつけられるそれは、
あまりに大きな目標であり、糧であり、経験であり、原動力となっていた。

もちろん、それがすべてではない。
そんなことは、誰もが知っていた。

社会の中に埋もれていても、自分の信じる価値を、
本気で叫ぶ人も、自分の胸の内に強く秘めている人も、いたはずだ。
だけどその声はあまりに小さかった。


そして訪れた 3月11日。

崩れた。なにもかも。
テレビ画面に映された惨事に、眼を疑った。
溢れてくる涙を堪えきれなかった。


自分になにができるだろう、
なにをしたらいいんだろう。

生きるってなんだろう。
社会ってなんだろう。
人と繋がるってなんだろう。


あの日を境に、何かが確実に変わった。

印象的だったのは、宮藤官九郎さんの言葉。
震災前に書いた多くの脚本を思い返して、「自分が書いたとは思えない」と言ったらしい。

ほかにも、祈ることの意味を問い直し、
「緊急時に、何もしないことが最良でありうることを認め、
何もできないことを受け止め、何かした気になることを戒め、
何かしないと不安なることと戦うこと」だと言った人がいる。



あの大きな揺れは、大地だけじゃない、社会の心を揺さぶったんだ。

まだわからない、わからないけれど、何かに気づかされた今、
小さな声に、耳を傾ける人が増えている。
内に秘めていた想いを叫ぼうとしている人がいる。





本物の価値ってなんだろう。
ボランティア経済、って何が価値基準になるんだろう。


眼に見えない経済。


直感を育てたい。