深夜編

時計が深夜12時の鐘の音を打つと喫茶リコリスは怪しい空気に包まれる。



次々と白装束の者たちが店に入ってきては
、店の奥の壁に消えていく…。
その中に、一人だけ腹から青白く光る紐(シルバーコード)をつけた者(肉体がまだ生きている者)がまざっていた。
今朝、アルバイトの面接に来たイノウエだった。



「何があったのですかイノウエさん」マスターの問いかけに「あなたは…僕…あなたに会ったことがありますね…」
記憶が曖昧なイノウエ。自分が何故ここに居るのかもわからない。



マスターと話をするうちに、自分が今朝ここにアルバイトの面接に来たことを思い出す。イノウエがこの喫茶リコリスでアルバイトをしたい理由は、彼女が向かいの病院に入院しているからだった。
そして、この喫茶リコリスは、この世から魂たちが旅立って行くポイントであること、マスターはそれを見守っている役目であること、また、自分が今半死半生の状態で、この世に留まるかあの世に旅立つかを決めないといけない事がわかる。



イノウエは自分の状況が分かると焦り出し「この世に残りたい。彼女を一人置いて行く訳にはいかない」とマスターに話すのだか、「心のどこかでは、もうあの世に行っても構わないと思っているということはないか」とマスターに問われ、ふと立ち尽くす。
「もしかしたら、僕があの世に行った方が彼女は幸せになれるのかもしれない…」



自分の身の上をマスターに語るイノウエ。
自分は彼女と知り合った時は既婚者であった。故郷に妻と子供が居たが、妻が過ちを犯してしまい夫婦生活を続けられなくなり、遠くの街で働くことになったこと。
彼女とはその街で知り合い自分の支えになったこと。
妻とは離婚したが彼女の両親から猛反対され、駆け落ちしてこの街にたどり着いたこと。彼女が心身のバランスを崩してしまい、入退院をくり返していること。
別れた妻のことも、その子供のことも彼女のことも自分が不幸の現況なのかもしれないと思っていること。
そんなことを考えながら川沿いの道をバイクで走っていたらいきなり後ろからバイクが突っ込んできたこと。

「一瞬罰が当たったんだと思った…。
自分は誰も幸せにすることができない男なんだと思ったら、自分はもうあっちの世界中に行った方がいいのかもしれない…。」



そんなイノウエにマスターは、言葉をかける。
イノウエがこの店に落としていった指輪を差し出して。
「誰かを幸せにしてやるだなんて、それはエゴです。幸せは誰かにしてもらうものではなく、自分でなるものだと思います。
別れた奥さんも、彼女も、あなたも、それぞれ選択をした。子供もいずれは自分が幸せになるために選択できる時がきます。生きている限り、過去は変えられませんが、未来は変えることができます。このまま全て投げ出して行ってしまうんですか。」



イノウエは、もう一度生きていくことを決意する。と、その瞬間、紐に引っ張られる。(肉体が魂の生きる気力に応えて、魂を肉体に呼び戻している。)
イノウエは、マスターに「この指輪、ここで預かっておいてください。僕、必ず取りに来ますから」と言い残して消え去る。



イノウエが去った後、マスターは時計に宿る先代の魂と会話を始める。

マスターは二十年前の震災で連れ合いを亡くしていた。
当たり前にある日常が突然なくなってしまい、全てを失ったマスターは生きる気力をなくしていたが、この店の先代(ママ)に世話になり、救われた。
失った彼女のことを思い出すことを長い間止めていたが、井上が来たことで思い出してしまったようだ。
「彼女に夢でもいいからもう一度会って謝りたい。一緒に逝けなかったことを…」
ぽつりとつぶやくマスター。
そして、もしイノウエがこの店に再び現れた時は、先代が自分にしてくれたように、面倒をみることを決意する。