仁左衛門さんトーク ぐるっと関西おひるまえ | はじめての歌舞伎!byたむお

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番組開始
スタジオ見学も女性率多し。




コーナーが始まって、紺のジャケットに水色のネクタイで仁左衛門さん登場。


「七ヶ月お休みいただきまして申し訳なかったですけれども、もうすっかり元気になりまして、舞台の方へ今月は松竹座の方へおみ足をお運びくださいませ。」



「待ってました!」(たむお@テレビ前)

「大阪は去年の七月以来です。毎年、七月、八月は大阪というようにしてます。私、大阪生まれ京都育ちですので。」



十三代目仁左衛門さん襲名のときの、秀太郎さんとご一緒、千日前での楽屋の写真を紹介。


「兄とは非常に仲良かったです、いまでも仲良しです。お神酒徳利(おみきどっくり)でどこ行くときも付いていってました。」


小さい頃のお話


「非常におとなしい子でした。ときどきやんちゃもしましたけど。中学、高校くらいから喧嘩っぱやくなりましたが(笑)」


「芸には厳しかったですが、優しい父親でした。

父親が仕事を終えて戻ってくるまで、子どもには遅い時間でしたけど待ってまして。

どうしても当時は裕福ということも無かったので、

食事は手を付けずにみんな待っていて、どうしてもおかずが少ないとかだと、

父親がまず食べて、男の子から順番に出てくるというような時代でした。

私もそれが心苦しくてね。

でも父も『そんなのかまへん、かまへん、みんなで一緒に食べよや』という人でした。」


初舞台のお写真紹介


「『夏祭浪花鑑』の伜市松、父の仁左衛門(十三代)の息子役。

恥ずかしい時に指をくわえるクセがあったので(当時五歳)、

花道を手を引かれて出て行ったんですが、

舞台でもずーっと指くわえてました(笑)」



中学生の頃のお写真紹介、聞き手の太平サブローさん「もてはったでしょ」

「いや、そんなん恥ずかしくて。」



歌舞伎以外の夢はありましたか?

「中学くらいでは、関西の歌舞伎は斜陽の時期でしてね、歌舞伎だけでは食べていけないので、三味線の道に行こうかとか、話せば長いけど、他にも色々とね。」



20歳の頃、『女殺油地獄』で大ブレイク


「近松の今でも三面記事にのるような話でね。与兵衛は大先輩がやるようなお役ですが、与兵衛と二十歳そこそこの私がやったことで、

ドラマとして生々しさなどが出て良かったんだと思います。好評いただいて。まあ、芝居はめちゃくちゃ下手でしたが(ご謙遜)。

初めての主役でしたから、嬉しかったですね。」




東京へ拠点を移す。


「こちらで主役でも、東京では最初はしばらくの間、仕出しの役(通行人、セリフが一つあるかないかくらい)でしたね。でも舞台に出れるっていうのが嬉しくてね。楽屋っていって階段の下のスペースだったりしましたけど。」



仁左衛門襲名


「『孝夫』というのは自分の本名なんで、私一代の『孝夫』がどうなろうとまあいいんですが、

『仁左衛門』という名は代々のものですがら、この名前の価値を下げてはいけないですし、次の世代の人が『仁左衛門』の名を継ぎたいな、

というようにしておかねばと、プレッシャーはありますね。

暖簾を預かっているような感覚です。」


七ヶ月休んでいるとき

「(以前の大病と違って)今回は療養の終わりがわかっていたので、それほどしんどいことはなかったです。神様からいただいた休養と思って過ごせました。今はすっかり大丈夫です。」




九月の歌舞伎座

「『連獅子』3年前に演舞場でやったが、新しい歌舞伎座でやりたいということで。

皆様ぜひ東京までいらしてください。」


寺子屋舞台映像紹介

「いまの(ダイジェスト)ではよくわからないでしょうから、ぜひ劇場に。」



仁左衛門さんの言葉を紹介

「不逆流生」

仁左衛門さんの書。

「三男の私が仁左衛門の名前を継いでいいのかと悩んでいる時に大病しまして、

これも生きるか死ぬかわからない大病でして。もう神様に任せようと。

それで自分が継ぐように世間の流れが来ているのに、それに逆らってもいけないし。

生きる命なんだったら神様が生かしてくれるだろうし、

流れにさらわず、流れを生(活)かして行きていこう、

それでふっきれて仁左衛門になったんですけどね。」



演劇界 2014年8月号 【表紙】 片岡仁左衛門『お祭り』鳶頭松吉[本/雑誌] (雑誌) / 小学館