「東国三社巡りは伊勢神宮に参拝するように
ご利益がある」
をテレビで見たなあと思い出してルートを
検索すると、茨城空港経由で2時間以内で
行けることが分かってビックリして
早速行ってみました。
東国三社巡りは初めての巡礼です。
■東国三社(とうごくさんしゃ)は、関東地方に
ある鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の総称
三社はいずれも関東地方東部の利根川下流域に
鎮座する神社である。古代、この付近には
「香取海(かとりのうみ)」という内海が
広がっていた。これら三社の鎮座位置は
その入り口にあたり、うち鹿島社・香取社は
大和朝廷の東国開拓の拠点として機能した
また、三社はいずれも『古事記』『日本書紀』に
おける葦原中国平定に関する神を
祀っている。うち息栖社主祭神・岐神は、
東国に導いたと伝えられる神であり、
同社では天鳥船神を配祀する。
江戸時代には「下三宮参り」と称して、
関東以北の人々が伊勢神宮参拝にこれら三社を
巡拝する慣習が存在した
■鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、
茨城県鹿嶋市宮中にある神社。式内社(名神大社)
常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は
神社本庁の別表神社
全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の
香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに
東国三社の一社
また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。
古代には朝廷から蝦夷の平定神として、
また藤原氏から氏神として崇敬された。
その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、
歴代の武家政権からは武神として崇敬された。
現在も武道では篤く信仰される神社である。
祭神
武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ
たけみかづちのおおかみ)
『古事記』では「建御雷神」、『日本書紀』では
「武甕槌神」と表記される
また、天孫降臨に先立つ葦原中国平定に
おいては、アメノトリフネ(天鳥船神:古事記)
またはフツヌシ(経津主神:日本書紀)と
ともに活躍したという
その後、神武東征に際してタケミカヅチは
イワレビコ(神武天皇)に神剣(フツノミタマ)
を授けた
神宮の祭神は、タケミカヅチが国土平定に
活躍したという記紀の説話、武具を献じた
という風土記の説話から、武神・軍神の性格を
持つ。特に別称「タケフツ」や「トヨフツ」に
関して、「フツ」という呼称は神剣のフツノミタマ
のように「刀剣の鋭い様」を表す言葉とされる
ことから、刀剣を象徴する神とする説もある
鹿島神宮は、下総国一宮の香取神宮
(千葉県香取市、位置)と古来深い関係にあり、
「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある
鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの
崇敬の深い神社である。
その神威は、両神宮が軍神として信仰されたこと
が背景にある。古代の関東東部には、現在の
霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む
一帯に香取海という内海が広がっいて、
両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に
鎮座する。この香取海はヤマト政権による
蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られている
鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識
しての配置といわれる
伊勢・近畿を除く地方の神社において、定期的な
勅使派遣は両神宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)
にしかなく、毎年の派遣があった鹿島・香取両
神宮は極めて異例であった
「神宮」の呼称
『延喜式』神名帳(平安時代の官社一覧)では、
「神宮」と表記されたのは大神宮(伊勢神宮内宮)
鹿島神宮・香取神宮の3社のみであった
創建について、鹿島神宮の由緒『鹿島宮社例伝記』
(鎌倉時代)や古文書(応永32年(1425年))
では神武天皇元年に初めて宮柱を建てたといい
神宮側ではこの神武天皇元年を創建年としている
一方『常陸国風土記』にも神宮の由緒が
記載されており、「香島の天の大神」が
高天原より香島の宮に降臨したとしている。
第12代景行天皇の代には、中臣臣狭山命が
天の大神の神託により舟3隻を奉献したといい、
これが御船祭(式年大祭)の起源であるとされる
飛鳥時代
『常陸国風土記』では、大化5年(649年)に
神郡として香島郡(鹿島郡)が成立し、天智天皇年間
(668年-672年)には初めて使いが遣わされて
造営のことがあったと記す
このような朝廷との結びつきには、中臣氏の
存在が背景にあったと指摘される
中臣部や卜部といった部民を定め、一地方神で
あった鹿島社の祭祀を掌握したと見られている
鹿島神が朝廷の東国経営で大きな役割を果たした
様子を表すものとしては、後世の『日本三代実録』
や『延喜式』神名帳に記される、
その記載から、鹿島神は国土平定の武神・水神と
して太平洋沿岸部を北上し、その過程で
各開拓地で祀られ、最終的に今の宮城県石巻市
付近まで影響力を及ぼしたとされる
奈良時代
春日大社(奈良県奈良市)
藤原氏の氏社。その創建に際して武甕槌神は
鹿島から春日へ勧請され、その第一殿に祀られた。
奈良時代には、史書に多数の神戸の記事が載る。
またこの時代、鹿島社は藤原氏から氏神として
特に崇敬された。
神護景雲2年(768年)には奈良御蓋山の地に
藤原氏の氏社として春日社(現・春日大社)が
創建されたといい鹿島から武甕槌神、香取から
経津主命、枚岡から天児屋根命と比売神が
勧請された
これら4柱のうち特に鹿島神が主神で、
春日社の元々の祭祀も鹿島社の遥拝に発した
と見られている
その後も藤原氏との関係は深く、宝亀8年(777年)
藤原良継の病の際には「氏神」の鹿島社に対して
正三位の神階が奉叙されている
平安時代
延長5年(927年)成立の『延喜式』
神名帳では常陸国鹿島郡に「鹿島神宮 名神大
月次新嘗」と記載されて式内社(名神大社)に
列したほか、月次祭・新嘗祭では幣帛に
預かっていた
なお、神名帳で当時「神宮」の称号で記された
のは、大神宮(伊勢神宮)・香取神宮と鹿島神宮の
三社のみであった
鎌倉時代から江戸時代
鹿島神宮は武神を祀るため、中世の武家の世にも
神威は維持され、歴代の武家政権や大名から
崇敬を受けた
源頼朝から多くの社領が寄せられたように、
神宮には武家からの奉幣や所領の寄進が多く
確認される。
明治以降
明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度に
おいて官幣大社に列した
昭和43年(1968年)には、明治維新後百年の
記念として茨城県笠間市産の御影石を用いて
大鳥居(二の鳥居)が建て替えられた
平成23年(2011年)3月11日に発生した
東北地方太平洋沖地震およびその余震により、
石造の大鳥居(二の鳥居)と御手洗池の鳥居が
倒壊し、境内の石灯籠64基も崩れたほか、
本殿の千木も被害を受け、被害総額は1億700万円に
上った
その後、境内の杉を用いて大鳥居が再建され、
平成26年(2014年)6月に竣工祭が執り行われた
今日のランチ紹介は
毎回、御神水の蕎麦を頂いています