妻沼聖天山歓喜院(熊谷市妻沼)で本尊の秘仏、
一般公開に行ったあと、境内をでると

神社参道の石碑が見えます。
きになったので行ってみると幡羅四座と伝わる
式内社がありました。


■大我井神社(熊谷市妻沼1480)
その昔、利根川が氾濫した折に大海のようになり、
水が引くと大きな沼が二つ残った。

古代の人々は、上の沼を男沼、下の沼を女沼と呼び、
これらの沼には水の霊が宿ると信じ、この二つの
沼を望む自然堤防の突端に社を設け、季節ごとの
祭祀を行った。→妻沼の地の始まり

この社とその周辺は、巨木が林立し、
形成した森は、現在の「大我井神社」
「聖天山」の境内地を合わせたほどの広さで
大我井の森と呼ばれる神域であった。

奈良期、この大我井の森に白髪神社を祀った
→二柱神社→後の大我井神社


白髪神社は。『延喜式』神名帳に登載された
幡羅郡四座の内の一座である。

平安後期、利根川右岸は開発が進み、現在の妻沼町と
その周辺を含む長井荘が誕生した。

長井荘の荘司である斎藤氏がこの地を得たのは、
1051年頃の実遠からで、
以後、実直・実盛と三代にわたり、実直の養子に
入った斎藤則盛の子である実盛は信仰篤い武将で、

治承三年(1179)に日ごろから守護神として
身近に置き、聖天歓喜院を祀る聖天社を
大我井の森に建立した。
以後、聖天社は長井荘司の信仰する氏神として
荘民からも崇敬を受け、次第に長井荘の総鎮守と
して発展していった。

その後、聖天社は幾多の変遷を経て室町後期、
成田郷を本貫とし、忍城主となった成田氏の保護を
受けた。

これは妻沼の地が成田氏所領の内の騎西領に属し、
庶民の崇敬を受けていた


天正十八年(1590)、小田原の北条氏に与力した成田氏の居城である忍城は、豊臣旗下の石田三成に
攻撃され落城
このため、聖天社は成田氏の保護から離れ、
代って関東に移封となった徳川氏の支配に
組み込まれた。

慶長九年(1604)に家康は社伝を造営するとともに五〇石の朱印地を寄進
慶応四年(1868)から全国諸社に神仏混淆を
禁じるため、神仏分離令が布達され


聖天社は、このような時流に乗じ、別当・社僧・
社守修験を廃し、純然たる神社として祭祀を
行うことを主張
聖天社境内のうち妻沼宿並びに往来の東側に
新たに大我井神社を分離独立

伊弉諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を再興し、
この社の祭祀に専念すること、
聖天社そのものは「聖天山」と改称し、
以後寺院として歓喜院が運営。



従来の崇敬区域である妻沼村ほか二八か村は、
二柱社の氏子並びに聖天山の永代講中とする、
とある。

聖天山から分離独立した二柱神社は、明治二年、
社名を古代から神の坐す大我井の森にちなみ、
大我井神社と改称し社殿が造営された。



ご祭神
伊邪那岐命、伊邪那美命
境内社 富士浅間大神、富士嶽・浅間・浅間・
富士嶽・高尾山、駒形神社
祭日 例大祭4月17日、鎮火祭8月

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