生命の二元論がある。


人は生まれつき善である。

人は生まれつき悪である。


人の心を旅して究明する場合には、かならず底辺の仮説から出発するものらしい。釈迦も法華経を説くために42年間をその礎として仮の教えを説いた。またキリストも愛の存在を知らしめる以前にはその慈悲力で民衆の病を治癒していた。人々は長い列を成したという。


人は生まれついたのは創造の愛により。

人はいま、そこまでたどり着こうとしている。悪は善となり、善は愛へ向かう。なぜなら、たとえば、生まれながらの病人が自分の病と闘っているうちには健康は分からないが、健康を知るといや増して活動的になることだろう。


悪とは、心が善に向かうために創られた対比の存在であり、人が自分で生み出した心の結晶である。だからこそ、その大きさが大きなほど苦しみもがき「自分は悪でもある」と悩む。


しかし、あくまでもそれは、その人に与えられた「昇華」のための道程であり、生命の成長過程には不可欠なもの。その心の結晶を見つけた人は、その雄大な愛の構想を知らないために「人は悪である。」と唱えた。


そこで出てくる言葉がある。

「浄化」だ。

私はこの言葉にはなじめないし、言い方を考えると少し悩んでしまう。浄化されるものはトイレや汚水ではないだろうか。先に言ったように「汚れている。」意味にも。


人はセットされてワンパックで生まれてきた。そう、その心をうまく利用すれば精神の最高峰へいける材料をいただいて生まれてくる。それはモチロン、釈迦もキリストも言っている。必要なものしか持ち合わせてはいないのだ。

その一部分を注視して「汚れているので浄化!」といってしまってはいけない。移り気で聞き分けのない子供たちを貴方は排除できるだろうか。それは成長の過程であり必要な経験なのだ。


人は悪口も言うし、誤解もする。一瞬で心も変わるし、喜怒哀楽に生きる。しかし、煩悩即菩提であり色即是空とあるように全てが必要で無駄な心はないのだ。


だから「昇華」なんだ。

嫌いな自分を浄化。嫌いな人を浄化。それは排出にも似た言葉に聞こえてくるのは私だけだろうか。貴方はあなたでい て、自分の一部を切り捨てていいのだろうか。この世の中には偶然はない。という。それならば貴方がワンセットで生まれてきたことに何の無駄があるだろう。 なんの浄化が必要だろう。


私はそう思うよ。


愛という海から


「自分」という水を汲んで生まれた命


今は海には見えないかもしれないけど


愛の成分になんら変わりはないんだよ


いいや本当の君は愛の海そのものなんだ


それに気付けば何時か愛の大海に帰るよ


僕は一度だけ愛を垣間見たことがあります。


それは謙虚な感謝であり、歓喜そのものでした。


それを知ると浄化という偽りがいかに幼稚なのか

はっきりと理解できるのです。愛はそのままで歓喜です。


そう貴方は愛そのものであり歓喜の結晶なのですから。


浄化といいエゴイズムを増徴する人々は間違いありません


愛という存在を今まで一度も垣間見たことがない人です。


私にはそれが理解できて偽物の愛を売る人が その人の未来がかわいそうです


本当の愛について 

論文 多聞


 仏法の世界観は多層にわたって世界が重なる平行宇宙。「須弥山」として現される。この綴り重なった無限の宇宙にあって愛と平和を守護するのが四天王。その北方に住し、たくさんの羅刹を伴い「愛」を見守る神(諸天善神)のことを毘沙門天といい、その別名が「多聞天」である。



 釈迦が成人したとき城壁の4つの門より生老病死という人々の苦しみを目の当たりにして「この苦しみ」を絶やす方法を見つけるために出家されたという。これを四門遊出というそいうだ。彼は人々の苦しみには「原因」があり、それを見つけ原因を取り除くことで四苦八苦という人々の苦しみを治癒する生命の医者だった。


 彼の究極の教えは、この宇宙で最高の力が人間には備わっていて(仏界)それは、この世界(宇宙)と繋がっているというものだ。この2500年も前 に悟られた宇宙の法則は、後に竜樹、天台、日蓮、ユング、シェルドレイクにより、約700年ごとに、それぞれの国で説明を加えられながら現在の平和思想へ と脈々と流れ続けている。僕が尊敬してやまない宮沢賢治先生もその思想に命を捧げた人だった。


 これはあくまでも一部の水脈かもしれない。何故かというと、その崇高な哲学を他の偉人や預言者も同じく伝えてきたことは間違いないだろう。それは 必要なことであった。2500年前の人間と1500年前の人間は考え方も生活も思想的な教養も全く違うからだ。


 その時代に適応し、その時代を導く偉人は時 代の必要により生まれてきて、同じく宇宙の最高哲学を説いていた。しかし、ここで大きな人間の過ちが始まったことも確かだ。


 たった一人の偉人が悟ったこと。それとは時代や表現方法が違っているが同じ内容の崇高な哲学は、いつか、それを説いた偉人の後継者達が孤立した宗 教としてしまい、内容は歪められなお、対立の原因としてしまったのだ。


 体験しなければ見つけようの無い人間最高峰の智慧は、時と国と内容と人々の感性や習 慣に於いて説明しなければならなかったゆえに、そこに連なった人々のエゴイズムにより戦争や差別の原因構造が構築されてしまったのだ。


 仏界。あるいは神。あるいは「愛」と呼ばれる私達に内在する力。それは光であり波動であり、この宇宙を創り上げた創造であり、生命の「原因」である。しかし、それは愚かな人間にとってはきわめて繊細であり、目に見えないものである。


だから人間は求める。


だから人間は比べる。


だから人間は苦しむ。


 最高の歓喜と幸福が私達の中にあるにも関わらず、その姿を偶像化して「外」に求めるのだ。これでは永劫に幸福にたどり着くことはない。この「外」に求める生き方や修行のことを仏法では「外道」(げどう)という。原因を外に求める哀れな人々との意味だ。 愛は水でも石でも火でも大地でもない。そう、愛は物質ではないし、貴方の思考や理性にもない。何故なら物質も貴方も、貴方の思考や精神も愛によって創造されたものだらかだ。


※関連記事1:詩人の宇宙生命論「愛の波動」

※関連記事2:深遠な智慧の完成「般若心経」の真実


 愛を見つけ、この手にすると歓喜しか生まれてこない。謙虚と感謝の上に湧き出る歓喜!「生まれてきて良かった。」「生きていて良かった。」「あり がとう!ありがとう!」言葉では決して表せるような簡単なものではないが、そう説明するのが一番近いかもしれない。愛ある人々は必ず謙虚であり、感謝に生 きていることを忘れてはならないのだ。


 では、この宇宙最高の英知、「愛」を手に入れるにはどうしたらいいだろうか。


 偏り無く普遍的に、心から命をかけて愛することである。そう、想い、伝え、行うこと。この三つの方法で愛を行うしか方法が無い。これだけしか愛に めぐり合える方法がないのだ。しかし、それを行うには髪の毛を振り乱してしまうような困難が押し寄せる。そして最大の勇気がが必要だ。僕は愛を信じた。ひ どい目にもあった。でも信じ続けた。愛の前では阿呆になって、信じることを止めなかった。するとどうだろう、私を包んで翻弄していた「絶対に解決など出来 ない」と思い込んでいた苦悩が、振り返ると全てが消え去っていた。


 最高の英知。それを知るには信じることだ。愛は、平和は、生命は、目に見えないもの。人は目に見えないものを信じることが出来ない。まして信じる ことを出来ないものを垣間見ることが出来ようか。愛し信じるといいながら神を崇拝する人々は何千年の間、殺戮と差別と略奪を止めたことがなかった。いった い、どこの神が殺戮と差別と略奪を許すことだろうか。結局人間は何も信じてはいないのだ。だからこそ、見えないものを信じる勇気と決断は何よりも難しく困 難であることは明白だ。私達が行わなければならない最高の愛の入り口は「本当に心から信じる勇気」に他ならないことは明白なんだ。


 最高の英知を知るには


 勇気を以って愛を信じること。


 そして愛を行うしか方法がない。


この英知は説明でわかるようなものではないのだ。それなのに、説明してわからせてあげるという偽預言者が大挙して現れる。末世の象徴でもある。


 僕はもう一度いう。


愛は愛を行うしか知る方法がない、しかもそれは貴方が感じるしか方法がない。愛は貴方の中にあって、それに触れることが出来るのは貴方だけであり、 誰も手伝うことなど出来ない。愛を手にし、感じ、それを世界に広めることは貴方にしかできない。そして愛は与えると増え、世界を包み込み、いつか宇宙と一 体になるもの。


この物質世界は、あるいは貴方の体は宇宙の愛が結晶化したもの。余分なものなど一つもなく、愛が世界を包含している。汚れたものなどなく、エゴイズムを昇華することが愛であるのです。


色即是空。煩悩即菩提。変毒為薬。因果具時。


愛により創造された世界。人間の儚い智慧で考えることが出来ない完成された世界。人知が未だ及ばない無駄なき世界。経験も物質も生命も全てが一体となった愛の世界。昇華されるべき美しき進化の道程。


浄化するべきものなど存在しない。愛により昇華される生命が私達にはある。無駄なものや汚れなどないのだ。それを「浄化」といいながら人々を惑わせ る者。その者達の幼き正体を見極めてほしい。精神の浄化とは自らのエゴイズムをカモフラージュするための詭弁でしかないことを。愛を行わずに「浄化」とい う人々のことを。


「私はここに」


いつも胸に手を当てて感じてください。いつも愛に貴方のことを聞いてください。


「私はここに」と。



私の本日のコラムを尊敬する人生の師。愛する「タミュエル」に捧げる。感謝。



  皆さん いつも来て頂いている皆さん 本当にありがとうございます

 僕はいつも皆さんの幸せを そして魂の昇華を いつも心から願っています