あの空のように
作詞 松尾多聞
作曲 宍戸 健

僕がどんなに祈っても
まるで茨を抱くように
悲しみしか残らないよ
早く自分を取り戻して

幼い頃に君が見上げた
まぶし過ぎるほどの空
そこに心を置き去りに
思い出すこともないね

力の限りに微笑んでよ
傍らには僕がいるから
光になって照らすから
早くここに帰ってきて


大切なものでもきっと
形あるものは壊れゆく
だけどまだつかめない
本当のものがあるんだ

ねえ君の心を探そうよ
生まれきたそのままの
空や雲や太陽のように
自由でありのままの姿

生きてる限り夢みよう
傍らには愛があるから
誰の心にも生きている
ほらね僕もここにいる



美瑛の丘で写した鳳凰の雲 多聞

不死鳥 鳳凰
 

1・光子と光の記憶

 

 私たちは無数の分子集合体であり、そしてその分子は無数の原子で出来ている。原子は陽子と電子により出来ていて、原子一個が東京ドームの大きさだとすれば、マウンドの上にポツリと置いてあるゴルフボールが陽子。ドームの周りをパワーである見えない電子が周っている。このゴルフボールは何で出来ているのか?実態はなにか?今の科学では誰も知らない。(ちゃんと説明できない)しかし、スタンドからはいつも照明(光子)がゴルフボールを照らしている。この陽子の実態が映像で映された光のイメージだったとしたら?照明が映し出したビジョンだったとしたら?この世界には物質がないことになる。

 

 私たちの周りには光が満ち溢れている。もともと光とは人間に於ける可視光線とされてきたが、今では非可視である赤外線や紫外線も含めて定義されている。光には粒子性という一面がある。難しく言えばアインシュタインが提唱し、今では科学の基礎となっているように質量を持たない素粒子としての立場「光子」である、また、光は電磁波という波動である。それは反射・屈折・回折などの現象を起こし、電波や無線の様に情報を包含している。(素粒子:物質の最小単位とされている。)


 関連して、既成の記憶装置は電位の違いによって情報を蓄え、脳内での情報伝達も電位差による信号。そしていまのメモリー装置(記憶メディア)は電位差を生み出す基盤に人工的に電気を流して作動するが、それが自然界では、電位とは波動であり、その特性が光子による光の波動の要素が創っていることが分かってきた。

 

 物質を構成するものは分子などであり、その分子は原子からできている。そして原子は電子や陽子であり、陽子は更に素粒子で出来ている。だが、その実態はいまだにわからない。これが素粒子の世界でしか解明できない謎のひとつだ。しかし、素粒子も光であり、パワーであるかもしれないと、素粒子物質論、質量論とは別に研究が開始されている。仮説としては、物質を構成するのも波動(パワー)であり、本来の姿は物質的に「無」であると。(本来は私たちの身体も素粒子の世界から見るとスカスカだ。)

 

 光はこの宇宙では特別な存在である。電子でもなければ原子でもなく、光子と波動の二面性を持つ。言うなれば素粒子とエネルギーという特別な意義を持っている。これは肉体という物理的存在と、魂という変化するパワーを持ち合わせた私達の「生命」と相似しており、光はその存在自体が記憶を持っている。

---------

1992年ニュー・サイエンティスト誌によると、IBM が発表した「絡み合った素粒子」理論を応用することで、フランスの研究者たちがその限界を打破した。 この理論は、相互に作用しあったことのある2つの素粒子には、それぞれ相手の情報を「記憶」する性質がある。(素粒子のテレポーテーション)※素粒子は記憶を伝達する。

--------

 光子は記憶する。またその記憶を光として電磁波が情報を補完、伝達する。それは魂がカルマを記憶して(光子の記憶)、原因の結果として物質的パワーである肉体(電磁波)が具現化することと同じである。

 

 では、光子や電磁波が記憶を持っていると仮定しよう。一体、どんなことが起こるだろうか。まずは、光を通す水晶やガラス、水、あるいはシリコン(ケイ素)、炭素等に工夫を加えれば記憶装置となるはずである。この基本的特性を知らないまでも半導体として使用されているのが面白い。

 

 これを勘案すれば一握りの水晶は膨大無限なデータメモリー(記憶媒体)となりうる。鉱物に記憶があると言う人もいる。また呪いのダイヤモンドの伝説など、無機質を構築する原子にもメモリーがあるとされてきた。もしも私に世界の最後が訪れ、何万年も後に生れてくる人類に、自分が生きた記憶を伝えるのであれば、私は迷わず美しい水晶かダイヤモンドをメモリーとして地中に埋めることだろう。きっとこの世界にはそのような古代人の生きた証が隠されていると確信する。

 

 また、先にも述べたが素粒子は「物質」であるとの確証は現代科学でも証明されていないのが現実であり、その質量とはなにか?と、研究がつづけられている。私たちの身体を創っている最小単位である、電子、中性子、陽子等はなにか?その正体を知っている者はいない。しかしながら物質の最小単位の「運動」(電子やフェルミ粒子、ボース粒子に見えるパワー)が質量を生んでいるとしたなら、それは光であり、記憶であるとも仮定できる。言うなれば私達自身が記憶装置であり、光が昇華された存在であり、新たな記憶を求める存在(意思)であり、ネイティブアメリカンが提唱する様に「人間は光の存在」である。私たちは記憶媒体としての水晶となんら変わらないのである。

 

2・記憶と時空

 

 過去の天文学では可視光線(目で見える)望遠鏡が主流であったが、現在は光から発生される電磁波(不可視)光線を受信する電波望遠鏡が主流となり、何十億年前に発射された光の記憶さえ捉えて、この宇宙のはじまりに肉薄している。いうなれば天文学とは宇宙の「記憶」を観察し、集積して現実を探求する学問と言っても良い。ここで天文学を逆説的に考えてみよう。

 


黒船来航 1853年 167光年先の観察者

 

 嘉永6年(1853年)に、マシュー・ペリー代将が率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件が起きた。いわゆる黒船来航である。さぁ、日本中は大騒ぎとなった。そしてそれが明治維新への始まりであると言われている。これは167年前の話だ。そしてそれはもう戻ってこない過去だ。しかしいま、161光年向こうから日本を詳細に観察できる機器を持った人がいるとしよう。するとどうだろう。その地点の観察者は「今」起こったこととして、黒船来航で日本が大騒ぎしている様子を目撃することとなる。

 

 目撃された黒船来航とは「記憶」である。記憶とはふつう過去のものだが、私達から見て数百億光年前の中性子星爆発が「今」観察できるように、宇宙全体で説明すると「今」でしかない。それを「今」にしているのが記憶とその媒体である光子であり光だ。つまり、黒船来航が起きているのが「今」であると説明できるのは宇宙という「意思」から見てである。それは宇宙内で情報を普遍的に伝達している光子の仕事である。

 

下呂温泉 露天風呂


 この宇宙ではこのように光がすべてを記憶しており、その情報は光子の伝達により普遍化される。そうなれば宇宙という主体的な存在から見れば全てが「今」でしかないことが容易に理解できる。それは説明したとおり、物質は光であり、記憶であるからに他ならない。この法則から宇宙でさえ逸脱することはないのである。

 

 それでは記憶(時間を超越した)とは何であろうか。それを般若心経では現象と感覚と表象と意思と知恵であると説明している。これを解説すると「現象(存在)」とは「意思」と記憶により生まれる「知恵」の昇華によりおこるものであり、その副産物として世界の設計図である「表象」が生まれて結晶化される。となる。これはこの世界(宇宙)の姿を端的に表現したものだが、現代の言葉で言うと「この世界を創っているのは光であり、その光とは時空を超えた記憶である。記憶とは原因結果のカルマの法則により結晶される知恵であり、その知恵は意思を以てさらなる経験を促す。」と私は理解することができる。つまり、この身体も、宇宙も、物質的に無の存在であり(光による記憶媒体)、それを(宇宙)創りだしているのは強いリアリティ「意思」である。と言っているのだ。

 

 般若心経及び仏典でも有名な言葉が「色即是空(しきそくぜくう)」である。これは素粒子が世界を創っており、その素粒子の実態を数千年前に明らかにしたものだ。

 

「色」とは私たちが生きる物質世界を言う。「即」とは「同じもの(イコール)」という意。「是」とは「すなわち」。「空」とは「実態なく見えるがいかなる縁も可能にする意思」と言えよう。そうなると「色即是空(しきそくぜくう)」とは、「この世界には実態がない。その実相は縁(光子による記憶の情報伝達)により進化する意思が蔓延する世界である。」と解説することが出来るのだ。この世界は「無」でも「ゼロ」でもない。「空」なのだ。


3・空間の飛躍

 

 素粒子とは、重さ(質量)のない丸い囲まれた空間に、質量の無い小さな玉が入っている。その玉が電気もエンジンもついていないのに目にもとまらぬ速さで振動して限られた空間の中で暴れている。手に取った人はそれに重さを感じてしまう。透明で透き通っていて、何もないのに。その原動力は光であり、光は意思によりつくられる。

 

限られた素粒子空間を創っているのも、小さなエネルギーボールが暴れるパワーも光であり、それは「意思」である。その光は原因結果のカルマである「記憶」を全宇宙に伝達する。もし、新たなリアリティを持つ人間が現れれば、いつか宇宙に蔓延する記憶をすべて集めることが出来るようになるだろう。そして、時空を超越した意思を更に持つことになるのだ。そこへの無限の階段が次元上昇であり、階層的アセンションなのかもしれない。

 

 石も水も空気も、光子から出来上がっている記憶。それらは観察者の意思によって結晶化されたものであり、私達からは物質物体に見えるものは、じつは、実態のないパワーや現象でしかない。そのことがいずれ理解される時がくるだろう。

 

 因果具時という仏教を理解するうえでの極意がある。カルマは時空を超えた意思に具足されている。という意味だ。この世界が「空」であり、本当は実態が無く、意思と記憶と智慧による現象で構築されていることを知り、その境涯に生きる人が私たちの物質世界を見たらどんな感想を持つことだろう。妙法蓮華経(法華経)如来寿量品第十六で釈迦は次の様に語っている。

 

「人々が、劫尽きて(世界の終りがきて)大火に焼かれると見るときも、わたしの国土は安泰である。天人(解脱の第1段階を経て 宇宙を自由に飛び回る人間)が常にあふれ、楼閣は種々の宝玉で飾られ、宝樹には花や果実が実り、人びとが楽しんでいる。諸天は天の鼓を打ち伎楽を鳴らし 曼陀羅華(まんだらけ・美しい花)を仏や人びとに降らしている。わたしの国土は安泰であるのに、人びとは、国土は焼け尽くし恐怖や苦悩が充満していると見る。疑うことなかれ。仏(生命)の寿命は無量であり、仏の言葉は真実である。」と。

 

 そう釈迦はこの世界が「色即是空」であることを知り、宇宙大(多次宇宙)の普遍的記憶を知恵として持っていたのだ。釈迦はこの科学的事実を人々に教えることが自分の使命だと何度も語っている。このことを具体的に説明した者は、これまで誰もいなかった。



 

 釈迦の生きた2500年前、あるいはキリストが生きた2000年前に、物質は実は虚無であり、宇宙には時間が存在しないこと。それを覚知してアセンションを個人個人で目指す事。そんなことをどうやって文字も読めない当時の人々に理解させたらよいだろうか。その苦労が本当に思いやられるのである。だから彼らは二千年先を見越して教えを説いている。そしてその時が今、訪れたのだ。

 

 仏にも神にも時間など存在しない。そこには今しかないのだ。そしてその時空を飛躍した存在からは、この世界が私達とは全く違った多角的な楽園になるだろう。時間とは距離と空間を包含している。そして自我を超えた宇宙意識となり、いつまでも自由であり、束縛などない。現代科学はその秘密の扉を開こうとしている。

 

 さて、貴方の身体も光と言うパワーで出来ている。心臓や手首だってもちろん。それを創っている光には無限の情報が込められているために、心臓や手首を移植すれば、その情報がストレートに本人につたわり、性格が変り、または、急に芸術を志す人も現れるのは道理だ。

 

 意思があり、その投影が物質世界だとする思想は何も私が最初に唱えたわけではない。プラトンが言う洞窟の比喩に代表されるイデア論もしかり、ユングの集団的無意識とシンクロニシティもしかり、現代の生物学者ルパート・シャルドレイク博士の形態形成場も正にリアリティが物質世界の設計図であると実験で証明している。だが、それは残念ながら状況証拠のみの証明であり、未だに知識として人々に伝わってはいないようだ。だからこれからは科学的に説明を加えなければならない、そして科学とは仮説からはじまる。


自由詩人 松尾多聞


 

自由詩人!松尾多聞のブログ

 

読者登録してね