自由詩人!松尾多聞のブログ


そもそも、日本には無かった概念である「Freedom」という英語を「自由」と訳した人は福沢諭吉先生である。「御免」と訳すか「自由」とするか迷ったと言うが、後者に決まって色々な意味で本当に良かったと思う。

じつは、この訳語の出典は釈迦の言葉で「自らに由る(みずからによる)」であり、既に原因と結果を内在している生命に基づいて生きることを教えている。生命とは、それ自体がカルマであり、自己責任であることを説いている。

そこで今日は「自由に生きる」とは、どのように素晴らしいことなのかを分り易く説明してみようと思う。しかも、たった2000字以内で。

ここにAさんがいるとする。Aさんは朝起きて列車に揺られて出社し、多忙に振り回され、責任に追われて仕事をこなす。それも、成功を義務づけられた数々の「恐怖心」の風に吹かれながら。

少しの暇に新聞を読み、家に帰るとテレビを見るのが何よりも楽しみであり、休みの日には、疲れ果てて寝ていることも多いが、家の用事はきちっとこなさなければならない。

子供はといえば、学校が終わり塾へ通い、帰ってきてはテレビとゲームにくぎ付けになっているのが普通である。

共働きの奥さんときたら、家事も仕事も馬車馬のようにこなしながら子育てと家計の心配に頭を使い、それで一日が終わってしまう。一息つけるのは友人とのメール交換である。


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ここでAさんのお宅を客観的に考えてみてほしい。

仕事もテレビも塾もゲームも、あるいは携帯電話も「与えられたもの」と考えることができる。それは何故かというと、すべてが画一的な範疇にあるからなのだ。

極端に云うと籠の鳥は大空の素晴らしさを知らないから空に憧れることはなく、与えられた空間と餌を分けあい(あるいは奪い合い)暮らしている。

Aさんもその状況に似ている。そう、自由がないのだ。自らに由る。とは与えられた限られた選択肢をセレクトすることではない。

与えられ、限定され、方向づけられたものにしかAさん一家は接することができないでいる。誰の影響も受けずに、自分自身の声を聞き、自分自身で決めることができないでいる檻の中でくらしているようにも見える。(私のことでもある。)

こころは、この社会では規制され、魂までも届かないように意図的に作られていることが、私には見えてきてしょうがないのだ。

それでもいつか、籠の鳥は空を見上げる。自由に飛び交う仲間たちのさえずりを聞くことだろう。自分の本当。魂を知るのだ。

人が自由であるための入り口はここにある。自分の本当の気持ちを「誰が何と言おうと見つけて信じること。」だ。参考とするのはテレビでも新聞でも、他者の批判でもない。それは本当の自分の魂であり、その声を聞くのは信じて感じる勇気でもある。


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肌を磨き着飾って、豪華な御殿に住むことを望むのが本当の貴方ではない。

恐怖に溺れながら、お金と諍いと不信の中に身を落とすことも貴方の姿ではない。

少なくとも、所詮それは籠の中の出来事なのだ。

人の幸福の姿とは、一言でいうと「自己実現」だと感じる。ならば自己を実現する貴方は、本当の自分を知らなければならない。

自由とは自在である、

それは思うように生きることができること。しかし、それはまた、自分で思わなければならない。感じなければならない。

本当に自由な貴方の愛を。あなた自身を。

忙しいAさんもそんなことを知れば自由になれる。もう一人の自分を信じて対話を試みた時から、Aさんは空を舞う夢を見ることができるからだ。

愛とか神とか仏とか、名前にはこだわらない。そんな全てとつながる存在は「自由」として貴方が育んでいる。

世界の一年分の軍事費で、世界の人が平等に暮らすと何年も社長のような生活が送れる。それも自由に。


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http://ueno.cool.ne.jp/nozomit/i/243.mp3

「星空の詩人」


神様を信じる人々は今日も

全てを奪いながら血を流す


この星の神々は泣いている

私のことを信じていないと


愛が満つ夜風も星の旋律も

人の心に似せて創ったのに


この美しすぎる世界のこと

誰も感じる事が出来ないで

夜空に詩人は膝をかかえる




自由詩人・松尾多聞


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