札幌の詩人・松尾多聞の朗読。病気の弟を救うために吹雪にかすむ石狩平野に挑んだ家族の記録。 襲い掛かる吹雪は、やがて家族をひとつに導いた。

あれはもう昔の話しなんだ。とっても遠い記憶。
僕たち家族5人が命をかけて石狩平野の雪原に挑んだ記憶。僕はそのときの光景を今でも思い出す。すさまじい生命への執着だった。。。。
そのときまで、僕の両親はいつも喧嘩ばかりしていた。
オヤジは当時、学校の先生で過疎地に赴任していた。転勤で僕たち家族もそこに連れていかれたのだけど、、、冬には雪が道路に積もっても除雪が来ない、道が無い、そして食べるものにも不自由する大変な場所だった。
お菓子なんて食べたことが無かった。都会育ちで流行のパーマネントをかける美容室を街中で経営していた母は反対したのだけれど、結局はついてきたんだよね。
慣れない不便な村での暮らし。何もない知らない土地。
毎日が喧嘩の連続で、母はいつも涙に暮れていたことを思い出すんだ。僕達兄弟は泣きながら「やめ てくれ!」って叫び続けていました。
小学校に上がったばかりの僕も、親の目を盗んで泣いていた事を思い出すと今でもつらいな・・・

でもね、母の気持ちが一変する事件が起きたんだ。
弟が大きな病気をして石狩「太美」の駅まで歩いていかなければならない厳寒の日、当時は除雪が無くっ て深い雪を足でこいで駅へ、そして札幌へ・・・・
僕達も長靴に縄を巻いてオヤジのあとを肩まである雪をこいで立ち向かった。弟は3歳で死にそうだったよ・・・喘いでは嘔吐して・・・母は泣 いていた。
「死なないでっ!」て。絶叫していたんだ・・・ずっと・・・
兄と僕は歯を食いしばって身動きできない雪の中を泣きながら歩いてい た。
弟を抱いた母が歩くことが出来るように。おオヤジがつけた体の跡 を追っていたんだ。

当時の村は馬橇(ソリ)が交通の手段だったのだけれど、貧しい部落だったので冬になると馬が出稼ぎでいなくなっていた。雪が解けると子供の足で1時間の道 を、死にそうな弟を抱いてオヤジと5時間掛けてもがいて歩いた。
弟は 大きな毛布を3重に巻いたなかでいつか寝ていたんだ。
大変な吹雪だったんだ。5メートル前が見えなくって、僕達もみんなが「死 にそうだ」って、子供でもわかったけど、だれも口にしなかった。
オヤジが 「もうすこしだ!」って最初から言っていたよ。
うそつき・・・
弟は札幌について逓信病院に入院した。肺炎で危なかった。 でも、弟は生きていてくれた。
その年に僕と同じ小学校に通っていた友達が、冬休みに2人。肺炎で死んだ。 それも運ばれる雪ノ中で・・・全校生徒が16人しかいない学校だったのに14人になっていた。
お袋は変わった。
喧嘩しなくなった。オヤジの家族を想う必死な気持 ちがわかったのかな。後で言っていたけど、オヤジの後ろ姿を愛してしまったって。

僕は死んでいった10歳にも満たない友人には申し訳無いけれど・・・
いつも遊んでくれた貴方達がスキで貴方達しかいなかったけれど・・・
村落の貧乏が生んだ結果には恨んでいるけど・・・
僕の弟が命を掛けておやじ達を変えてくれたと想う。 そこにはひとつになった家族がいた。
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この経験を思い出すと、私はなぜか
涙が止まらなくなるんです。
一緒にがんばって生きていた人々。
そして貧しさに死んでいった友達。
冬の風が吹くと、私は涙をこらえる。
今日は私の思い出の作品でお別れ。
「凍笛が鳴る道」をお贈りしますね。
BGMつきで閲覧してください。

「凍 笛 が 鳴 る 道」
雲は流れて空高く凍笛が聞え来る
低く遠い音色が木々をも眠らせた
背中を丸め暖炉に蒔をくべいれる
あの冬に父が踏んで創った雪の道
高く冷たい雪壁を辿りもがいてた
背中だけを信じながら母と続いた
凍笛が襲いかかる寒さを呼び込み
大地に響いて家族を一つに導いた
くべる炎に映し出す命をかけた道
父が拓いた細く長く吹雪に霞む道
いま私の目前にもつづいて見える
私も踏みしめ私の道を拓いてゆく
【 凍 笛 】
シベリア寒気団が南下して北海道に厳寒を運ぶとき、上空高く無数の霧笛が鳴り響くような音が続き、暴風を伴って大地は吹雪に染まります。その不気味で恐ろしい音に私が「凍笛」(とうてき)と命名しました。