【与わること、与えること】

よく考えるのが、自分は周りの人に何を与えられているのだろうかってこと。
与えてもらってばかりで、与えることがどれだけできているんだろう。
与えられてないんじゃないのかって。

ギブアンドテイク、以前もこのテーマについて書きましたが、今日は一日、自分が何を与えることが出来ているのかということを考えていました。
というよりは、何故周りはこんなにも私に何かしらを与えてくれるのかということ。
ギブアンドギブアンドギブでありたい、見返りを求めず、ただ与え続ける人になりたい。
そう思って行動していた時期がありました。
そうは言っても、ギブするばかり、ともすれば自己犠牲の思考がムクムクと起き上がるとやはりつい見返りを求めてしまいます。
“俺ばっかやってないか”
“こんなにしてるのに、向こうは知らん顔かよ…”
そういうマインドでは早々に挫けて頓挫。
与えることって何だろう。
何を与えることが出来るんだろう。



以前、オーナーには

“何もしてない人が、誰かに何かをしてもらえるわけがない。
してあげるからしてもらえるんだ”

と強く叱責をされました。

確かにそうだ、今の自分は何も与えることが出来ていない。
たまたま与えてもらうことが多いけど、いつまでもそんなわけにはいかない。
やってもらってばかりじゃいけない。
変わらなきゃ、成長しなきゃ。
俺は何を与えていけるんだろう。


そう思いつめて、より苦しい時期を過ごしました。
そういった義務感、ねばならないを手放す努力をしています。
自分にとって、“やりたくないと感じることを、やらされていると感じていること”が何よりも苦痛感情を実感するということを身を以て知りました。
それは、誰かにやらされる、ということではなく、自分が自分を殺して自分にやらせる、ということ。
これを手放す努力、思考の工夫が心の在り方を変化する上で今の私に必要なリハビリです。

話が逸れました。
結果、一日考えて気付いたことは、自分が“何を”与えることが出来ているのか、“何を”与えたいと思っているのか、といった“何を”が分からず、正体不明の自分が与えることが出来ているものを信じることが出来ずに“何も”与えられていないんじゃないか、という気持ちになっていたこと。

これだけの人に愛され、期待され、用いられ、与えてもらっていること。
確かに“何を”かは分からないまま。
でも、どうやら自分にも与えることが出来ている、というのは事実のようで、それがこれだけの周りの方からの愛なのだという思いに至りました。
もちろん、この先“何を”ということは見つめていくべきことです。
しかし、それ以前に自分にも“何か”を与える力があるのだということは素直に認めるべきだったのです。
“何を”かは分からない、分からないから認められない、認められないから自分の価値を自分で下げる。
そんなループでは本当に与える力を失ってしまいそうです。
今現在、確かに私は誰かに“何か”を与えることが出来ているということ。
自己肯定感、自己重要感は他者比較することではなく、大きい小さいではなく、等身大の自分に今出来ていることを承認すること。
自分で自分にYESをあげること。
ずっと卑屈になって認めてあげなくてごめんね。


一時間水風呂に浸かってみたらスッキリしました。
猛暑が続いています。
読者の皆様、どうかご自愛くださいませ。
今夜も熱帯夜。


では、また。