Re. 私は一人の絵描きとして理想とする…あなたに問いたい。
私はモノづくりの人。
趣味の時間に好きな音楽を流して描きたい絵を描く。
モノづくりの人として忘れてはいけないことは、作ったモノが第三者を幸せにすこと。
だから、客観的な視野を持ち、常に第三者のことを考えなければならないと思ってる。
だから休日はどこへでも歩いてみる。絵描きなのに外に出るのが好きな私。
いろんな人と会ってみる。話してみる。ファッションに目を向け、身に着けてみる。違う考えを取り入れてみる。
新たな出会い。それが経験として、知識として身に付いていく。
デザイン、経済、トレンドには共通点がある。人々の心境や景気、環境よって変化する。
だから面白い。いろんな考えに触れることでデザインは私の中で変化を繰り返し、私の色としてイラストに描いていく。そこへ私の考えや考察を練りこんでいく。
『現実』という描かれたキャンバスに『自分の考え』という色を塗ってファッションイラストを描く。それが私の描き方。
基本的に『現実』が『自分の考え』を上回らないようにしている。『現実』に私が多く色を塗ると言うことは評価されないモノを作る危険性があるから。
しかし、日本の『現実』というキャンバスを眺めていて、私は疑問を感じている。
その『現実』というキャンバスに他の人が『自分の考え』を塗ろうとしたら?もし、その塗られた『現実』は他の『自分の考え』によって見えなくなってしまったら?
今、日本の『現実』は塗りつぶされようとしている。わずかな筆によって『自分の考え』の色を大量に。
2015年。戦争法ともいわれた安保法制がこの日本で可決された。
3・11の東日本大震災並びに福島第一原発事故後から少しづつ塗られていたんだろう。吉田調書の問題とか。
特定秘密保護法が可決されたときにこの国の立憲主義は崩された。そして、安保法制。憲法の定義は何であったのだろうか。
一度塗られたキャンバスの色は落とせない。加筆して色を塗り直さなければならない。
しかし、各々が好きな色を塗りたがり元の姿が見えない。
いろんな欲望や権力の『自分の考え』によって。
ねえ。これからあなたに質問するからよく聞いてね。
ある冒頭で流れた言葉…
「人は皆 目を閉じて生まれてくる そして 大半はそのまま生涯を終える 指導者にやみくもに従い存在意義を感じるためなら喜んでわが身を犠牲にする」
『自分の考え』という色は誰もが絶対に持っている。しかし、その色は果たして自分の『自立心』から作られた色ではなく、誰かの色をそのまま『自分の考え』として使っていないか、もしくは近似色にとして使われていないかと言うことだ。
私
が見てる感じで、今の経済は金融資本主義で資本家が投資をすることで、その労働が成り立ち生産と消費をおこなう。トリクルダウンと呼ばれる富裕層が富を得
ることにより、中層下層にも富が回る考えが普及していて、そういう定義だと思われてきた。クズネッツのデータから導き出された『クズネッツ曲線』も影響が
大きいだろう。
しかし、1+1=2なので、波があるのは言われていることで、ここ最近では中国バブルの崩壊とか。株による金融資本は安定していない。
ここで新しい考えが出てきた。トマ・ピケティの『21世紀の資本』である。
データにより従来の考え方による富の分配は否定された。私も『21世紀の資本』は勉強中なので喋れないけども。
しかし、どの経済思想、宗教思想、政治思想にも権力が存在し、思想が崩れることによってその権力は力を失う。だからその色を使い続ける。自分の権力を守るために『自分の考え』を変えない1%の大きな筆がある。
思想家や指導者がいて、強い思想や理論がある。ケイビスのマクロ経済学、マルクスの資本論、ルソーの社会契約論、ファシズム、キリスト教、イスラム教、仏教などなど…
その思想や指導に忠誠を誓って動く人、その思想や忠誠を利用して『自分の考え』に染めようとする人、恐怖によって強引に染めようとする人がいる。
さらに言えばその下にもピラミッドみたいに同じような思想家や指導者がいる。
しかし、それに力が及ばない残り99%の筆はどうだろか。
今、注意していることは『自分の考え』を載せたパレットは1%の色に近似しているだろう。そこに別の色を足してしまったり、足されていないかと言うこと。
私もどうなのかわからない。それこそ、今の教育というのは考えさせる能力を身に付けることに重点を置いているのではなく、1%の即戦力として存在意義があるように教育されているような気がしなくもないから。
個人の好奇心に即戦力としての存在意義が共鳴して若き天才が生まれることがある近年。一方で、個人の好奇心とは別の即戦力を植え付けられようとして失敗し、『自分の考え』が持てずに他の色が混ざりながら人生に流される凡人。
ねえ。私達は何のために筆を持ってるの?
ある日、3・11後の原発の安全性に疑問を持ち、地元北海道の原発を廃炉にする『自分の考え』を持った人たちと出会った。以降、そこでの活動に参加するようになった。これが私の市民運動の始まり。
平和安全保障関連法案(以降、安保法制)の問題が始まり、若者中心の戦争反対デモに参加してから仲間も増えた。
みんな違う『自分の考え』を持ちながら、お互いの色を混ぜ合わせ、『現実』に『民主主義』という作品を描こうとしてる。安保法制が可決された今も。
しかし、自分たちよりも大きい筆は私達が描いている作品に『自分の考え』を加筆する。
そして今、お互いの色を混ぜ合わせた『自分たちの考え』ができてきた。複数の筆で作られたその色は、その大きい筆の色に対することができるかもしれない。そんな期待がある。
当然、統一された色にならない絵の具の色。だが、そのパレットとキャンバスで互いを認め合う。
相手の大きな筆は小さな筆を自分の色に染め上げ、大きくなってきている。でも、このまま『自分たちの考え』が多くの人のいろと共有し、多くのパレットにのれば、対抗できるだろうと思ってる。
し
かし、その『自分たちの考え』を載せたパレットに別な大きな筆が色を足し、せっかく出来上がった『自分たちの考え』が、近似色のいくつかの大きな古い筆の
色に染められようとし、『自分たちの考え』がそれぞれの『自分の考え』のところに分離されそうになってる。その危機感。
小さい筆の色同士は混ざり合っても、大きい筆同士は色を混ぜあい『自分たちの考え』になろうとしていない。
若い筆は大変である。色を混ぜあいながら、「日常を守れ!」とは言いつつも、手持ちの色が少なく、戻ることは困難であるから。筆が折られようとしたり傷つけられたりする。そして、何かしらの大きい筆の影響はあるのだから。
私も手持ちの『自分の考え』は少なくなってる。私はご本尊様を拝し、仏法に基づく色があり、剣道と書道から得た武士道の色、なによりイラストの客観的視点の強い色がある。
そこに今は市民活動家としての色、社会主義の色、走り屋としての色、経済発展を考える色、職人としての色が混ざっているけども。
ただ、混ざり合うことを嫌がる筆がいて、私の筆というのも嫌われる。全てじゃなく、一色だけとか、いろいろと。
従来の友達や知り合いと縁が切れただけならいい。職場や家族との関係に亀裂が入ってしまった。ストレスで頭も禿げた。でも、みんなと一緒に『自分たちの考え』を塗ろうとしてる。
私でこれなら、もっとすごいストレスや過酷な環境に置かれてる『自分の考え』は沢山いる。仲間に毎日のように嫌がらせを受ける人もいる。でも、全くの素人がここまで妥協して認め合い『自分たちの考え』を持とうとしてる。
しかし、もっと大きい筆を持った『自分の考え』は少ししか混ぜ合わせていない。
互いの『自分の考え』を認め合わないのだろうか。
なんで、どこかに排外的なモノをみんな抱えるのだろうか。
混ざらないと、反対いる大きな筆の『自分の考え』の思うつぼではないのだろうか。
ねえ。なんで彼らは『自分の考え』にたっぷりと染まりたいのだろう?
私としては何がどこまで政治に関わっていいのかわからない。
政治家、資本家、労働者、公務員、法律家、宗教者…
三権分立というのは守られても再び壊されようとする。今、日本はある一つの『自分の考え』に
よってまとめられようとしているのではないだろうか。
それこそファシズムである。
未だにヒトラーの『自分の考え』を尊敬する筆も多い。
神のお言葉だからと武器を持って戦え、血を流せという『自分の考え』に走ってしまったのもいる。
日本も先が不安。
『第二次世界大戦』を『大東和戦争』と呼び、戦争を美化し、戦犯を英雄として祀る。
どこかで政治と経済、宗教は切れない関係なのだろう。
しかし、平和とはなんであるか。
仏様、聖人イエス・キリスト、預言者ムハンマド…
どの説かれた教えも、信仰の違いはあっても、道徳としては一致してる点があると私は思う。
私は日蓮大聖人様の教えのもとでご住職様から色々と説法を頂戴してきた。
剣道でも学んだことがある。
『礼に始まり礼に終わる』『打って反省打たれて感謝』
競争しつつも、相手を認めて思いやることができないのだろうかな。と。
弱い相手を叩きのめす『自分の考え』を見直さないのだろうかと。
『相手を疑って『自分の考え』を保守して対立する』のではなく、『相手を信頼して、『自分の考え』を共有して競争する』と言うことはできないのだろうか。
ねえ。反対の『自分の考え』と混ざっていけないの?
作家の先輩たちはいろんなことを伝えてくれてる。
SF好きな私。小説、ゲーム、映画とか。
人間としての生き方。社会のとらえ方を教わったのはここからかも。
作品に描かれた未来へのメッセージと世界観。
しかし、描かれるのはどこか悲しみを感じ、どこか、人間性というのを考えさせられる。
利便と代償…
利を勝ち取るための奪い合い。
『生きる』ということに、悲しみと展望を描く。
自分は長く生きてないからわからないけども、何か見えてるのだろうか?
作品としては違うけども、どこか、どの作品も似た世界があったり。
ふと、アインシュタインの言葉が浮かぶ。
「I
know not with what weapons World War III will be fought, but World War
IV will be fought with sticks and
stones.(第三次世界大戦はどう戦われるか、わたしにはわかりませんが。しかし、第四次世界大戦は棒と石を使って戦われることでしょう。)」
現実を見て、何かを頭で描いていたのだろうか。
『ハルマゲドン』と『最後の審判』
どちらもSFの作品によく出てくる。ヨハネの黙示録に出てくる言葉。
たまに現実世界で言う人もいる。「我々は最終戦争に勝利し、天へ行くのだ。」とかね。
よく描かれる『荒廃した世界』や『体が腐ったり変異した人や生きもの』というのは、この二つの後の話かとも思ってしまう。
見えているのだろうか?
そんな疑問もある。
先人たちは現実というキャンバスに『戦争』という色を塗ることを嫌い、その『戦争』の結末がキャンバスが破れることだとしている。
先人が見る終末論とは何か。
作家がなぜ、こんな終末論を描くのか。
ねえ。私達の世界は皮肉に染められた世界なの?
モノづくりの人として、客観的な考えと目を持つこと。まだ若いからいいけど、歳をとったら周りみたいに視野が狭くなるのかな。それが怖い。
すでに狭いかもしれない。なんたって、それに気が付かない人がほとんどだし、それを『効率化』ともいう。
1歩下がって物事を見る。すごく大事。でも、仕事ができないと怒られる。バランスが難しい。
だから『自分の考え』を誰かに染める。楽だから。でも、したくない。
自分の考えを持ってこそ絵描きだから。
自立心をもった妥協ではないだろうから。譲歩かな。
今、この国のある『自分の考え』は、『平和』という言葉を嫌っている。まるで、戦争が、今の経済が『平和』じゃないと言ってるかのように。
思想は変わる。
正直、マルクスの資本論も完成を見てみたかった。マルクスの手によるもので。それが革命で終わるものなのか、わからないような気がするから。
当然、クズネッツやトマ・ピケティの統計データは正しいだろうし、こういった考えもまた世間では変わっていくのだろう。
絵描きとして、思想、経済、信仰の変化を見なければならない。それがファッションに影響する。
ファッションは世の中を映す鏡。カラフルな日常が広がれば、それが平和なんじゃないかと思う。
それを『現実』というキャンバスに描きたい。そして、その日常を作品として描きたい。絵描きとして。
ここまで長かったけど、ちゃんと読んでくれたかな?
ねえ、あなたに問いたいの。
今、ある人に願いを託して、その色に染めながらも応援してる。
その人は私が見てきた中でそんな自分の色を押し付けようとしない。
私の色の居場所をくれてる。
ひとりひとりの色の居場所をくれてる。
やさしく、思いやりのある色。
今、この北海道で闘ってる。
私も応援してる。
この選挙だけが闘いじゃない。
一番は現実というキャンバスを破られないようにすること。
そして、一色の大きな筆によって塗りつぶされないようにすること。
でも、これがはじまり。
きっと、新たな浸食は始まる。
すでに若い筆はそう。
元々話し合うのを望んでた。
でも、染められて『自分の考え』を維持するのが厳しくなってる。
大きな筆は常に背後にいるもので。
すでに、そんな人たちを見てきた。
あれだけ仲良かった色も同じパレットに乗らなくなるのかな?
私も染められてしまうのかな?
ある政治家が「今の既成政党は化石となってる。」って言ってたけど、私たちもその化石となってしまうのだろうか?
生きてる社会。
生きてる色。
生きてるひとりひとりを同じパレットに色をのせたい。
思いやりのある社会を。
みんなでキャンバスに描ける社会でありたい。
私たちは犠牲者かもしれない。でも、次の世代に私たちみたいな思いはさせたくない。
私たち若い筆の宿題でもあると思う。
でも、この状況からはじめるのは難しいかもしれない。
そんな私たちを導いてくれませんか?
その人は多彩な色、多彩な考えを持ってるから。
私が見てきた中の1人。
『思いやりのある社会』
闘った相手にも心を開ける社会でありたい。
弱い人にもちゃんと手を差し伸べてくれる社会でありたい。
こんな作品を実現できる人じゃないかと思った。
期待して私は応援してる。
私はこの結果にかかわらず、その後も応援しようと思ってる。
私の色の使い方。
あなたはどう思ってるの?
あなたはその白い体にいろんな色を塗られていく。
あなたが嫌がることがあるかもしれない。
でも、なかなかそれが私たちには伝わらない。
私だって聞きたい。あなたに問いたいことがある。
「あなたはどんな作品なの?」
…あなたの返信を待ってるよ。
by, Tsurushigaki.