第171回_大谷米太郎(_裸一貫から巨万の富を築いた傑物(大災害から立ち上がった男達②) | 【松下幸之助、創業者、名経営者、政治家に学ぶ】          

第171回_大谷米太郎(_裸一貫から巨万の富を築いた傑物(大災害から立ち上がった男達②)

「私の人生は、よく他人に七転び八起きの人生のように言われるが、外見には波乱に富んだ人生のように見えても、私自身としては階段を一段一段上がっていったもので、私は未だかつて転んだことはない」大谷米太郎(おおたによねたろう)




大谷米太郎(おおたによねたろう)(明治14年~昭和43年)は1881年(明治14年)、富山県の現小矢部(おやべ)市で生まれた。父は小作農で、暮らしは貧しく米太郎は小学校を休んで他家へ農作業の手伝いにいかなければならず、冬場は造酒場で働いた。このため小学校の退学を余議なくされた。


米太郎は学問を身につけることは出来なかったが、体は人一倍大きく草相撲では横綱格であった。父が死去してからは小作農を続けながら一人で母、弟一人、妹5人の大家族を支えた。米太郎は丈夫な体を活かし懸命に働くが暮らしはさっぱり楽にならない。そこで「東京に行って金をためよう」と決意し、わずか20銭の所持金を持ち東京に出てきた。米太郎31歳の時である。既に結婚もして子供も二人いた。もちろん東京で知り合いなど誰もいない。働くところを探したが保証人がいないため日雇いの荷揚人夫(にあげにんぷ)をするしかなかった。体力だけは人一倍ある米太郎は懸命に働き、その後、米屋や酒屋などで寝る間も惜しんで働いた。そしてついに自分で酒屋を開業するまでになり、さらに鉄製品をつくる元となるロール工場を開設するまでになった。裸一貫、貧農の郷里から出て来て自力でここまできたのだから快挙といえるであろう。


ところが米太郎に一瞬のうちに災難が降りかかる。1923年(大正12年)91日に起きた関東大震災である。家屋の全壊13万戸、死者10万人の被害を出し、こと東京下町一帯は火災により一面、焼け野原と化した。米太郎のロール工場も焼け落ち、酒屋も全焼した。女房、子供を探したがいない。ひどい惨状を目の当たりにしまず生きていないだろうと諦めたという。


しかしこの絶望ともいえる状況で普通ならばショックで力が抜け落ちるであろうが、米太郎は違った「まあ、仕方がない」と思うだけで直ぐに頭を切り替え、なんと翌日から工場と店の再建に取り掛かった。焼けた店をシェベルで炭をかき出し3日目にはバラックを建てた。それから3ヶ月、店跡に残ったコンクリートの土間の上にゴザを敷きそこで寝起きをして働き続けた。すると死んだと思っていた女房、子供たちもひょっこり戻ってきた。聞くと上野の山から川口の知人宅に逃げていたという。それから夫婦で力を合わせて寝る間も惜しみ死にもの狂いで働いた。焼け跡で飲食店をはじめ、一杯50銭の「均一どんぶり」を売った。続いて雑貨屋も開く。やがて工場に放置してあった「焼けたロール」がそのまま売れるという幸運にも恵まれ工場の再建にも見通しがたつ。酒屋も飲食店も焼ける前の3倍ぐらいの大きさになっていた。



そしてこのロール工場の再建の成功がその後大きく発展することになった。関西や中国大陸にも工場をもち、1940年(昭和15年)には資本金1億1300万円。資本金の額では当時全国で9番目の会社になった。鉄鋼業の雄となり名前も大谷重工業とした。その後も精神し続けて大谷重工グループへと発展していく。




戦後は頼まれて購入していた千代田区紀尾井町の土地に東京都から「オリンピックのためのホテルをつくってもらえないか」と申し入れがあり、米太郎は「なんとかオリンピックのために役立てば」という思いで、まったく未知のホテル事業に乗り出す。1964年(昭和39年)91日、東京五輪開幕の40日前に地上17階、地下3階のホテルを開業した。これが現在のホテルニューオータニである。米太郎は既に83歳になっていた。その後1965年(昭和40年)には㈱上野ターミナルを、そして1967年(昭和42年)には、㈱東京卸売センターを設立して社長に就任。他方、郷里富山県に富山県立大谷技術短期大学を創設して寄付もしている。米太郎は87歳で生涯を終えたが亡くなる間際まで社長業を行っていたのだから驚きである。




米太郎は関東大震災の時のことを「私の履歴書」でこう振り返っている「今から考えてみると、この大震災が「ロール工場(後の大谷重工業)」の第一期の発展をもたらしたといえよう。(中略)人間、苦労しなければいけないのはここである。私だって、みなと同じく焼け出されているのだ。その中にあって土間で寝、真っ黒になって働いたのは、苦労の中から生まれた頑張りと、ものに動じない根性がそこにあったからだ」






311日の東日本大震災で家や仕事、生活基盤の全てを失った人は多いであろう。しかし体が無事であったのならば希望を捨てないで欲しい。90年ほど前に同じように震災で生活基盤の全てを失った大谷米太郎は学問もなく読み書きもあまり出来なかったと聞く、持っていたのは丈夫な体とへこたれない根性だけであった。政府の援助も人の助けも借りずに、この窮状から独力で抜け出し一代で巨万の富を築いた。鉄鋼業の雄となり日本を代表するホテルも残したのだ。




文責 田宮 卓






参考文献

日本経済新聞社 「私の履歴書 昭和の経営者群像5

青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社

日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人Ⅱ」 日経ビジネス文庫

中江克己 「明日を創った企業家の言葉」太陽企画出版

船井幸雄 監修「ビジネスマンが読んでおくべき一流のあの選択、この決断」三笠書房