第67回_北里柴三郎_石碑から学ぶ美しい人間関係 | 【松下幸之助、創業者、名経営者、政治家に学ぶ】          

第67回_北里柴三郎_石碑から学ぶ美しい人間関係

日比谷通りの御成門交差点にある東京パナソニックビル1号館に接する形で「傳染(デンソ)病研究所発祥の地」という石碑が立っているのを知っているであろうか。この研究所は細菌学者、北里柴三郎によるペスト菌の発見、破傷風菌の純粋培養、ジフテリアの血清開発や、野口英世の輩出など伝染病撲滅に多大な貢献し世界的にも多くの学術的功績を残した研究所である。

東京パナソニックビルの脇に何故このような石碑があるのか不思議に思い調べてみた。この石碑には明治の近代化に貢献した人達の無償の支援と恩義に満ちたストーリーが詰まっていることが分かった。

明治になっても 公衆衛生水準は上がらず, 国外からは コレラなどの伝染病がたびたび持ち込まれ国内に大流行を引き起こしていた。ドイツ留学から帰国した 北里柴三郎はこの事態を憂い伝染病の研究所をつくりたいと思ったが、歯に衣を着せぬ物言いで東京帝大から冷遇されていたため研究所の設立は頓挫してしまう。


北里が内務省の当時の衛生局長の後藤新平等にはたらきかけることにより伝染病研究所をつくる案がまとまったが、これに文部省がまったをかけた。文部省は東京帝大にこそ伝染病研究所を新設すべきだと主張し、そこに北里の名前はない。あくまでも北里憎しとする東京帝大の動きが、内務省と文部省の対立を背景に、猛然と起こってきたのである。そして北里は研究の場をなくしてしまった。



そんな時、福沢諭吉を紹介された北里は福沢の自邸で自分の思いをぶつけてみた「伝染病をいかに予防し、撲滅するか。そこにこの国の将来がかかっているといっても過言ではありません。伝染病との戦いはこれからだと思います」と力説する。その卓見に福沢は感心しつつ「学問は国の礎だ。それには自由でなければならない。」と持論を展開する。それに北里は「学問の自由が阻害されては学問の進歩と発展は望めません」と応じた。39歳の北里の若々しい情熱に感じ入った福沢は「ついては出来るだけのことはしよう。学者を助けるのが私の道楽だ。」と言い、そして、御成門近くの土地千坪の借地を提供しようと申し出たのである。そこに研究所を立てればいい。建物や器材はどうするか。福沢は親しかった実業家、森村市左衛門にお願いする。


森村はこれに心地よく応じた。突貫工事で建設が進められ、研究所が開設された。森村は現ノリタケの創業者でありその後も研究所の支援を惜しまなかった。


北里は帰国して僅か半年で日本初の伝染病研究所を、福沢と森村の援助で設立されスタートした。そしてこの年から9年にわたる福沢と北里の師弟の厚誼が始まった。福沢57歳、北里40歳のときである。つまり福沢が亡くなるまで厚誼が続いたことになるが、福沢亡き後も、北里は慶応義塾に医学部が設立されると初代医学部長に就任するが福沢への恩義からずっと無給のボランティアで勤めたという。


北里を支援した福沢も森村も無欲であれば、その恩義を生涯忘れずにお返しをしようとする北里も立派である。この伝染病研究所は幾度かの変遷を経て現在に至っており石碑は創立100周年を記念して平成4年につくられたものである。


見返りを期待して支援をすることや、受けた恩を一時だけで忘れてしまうのが昨今あたりまえになっている気がするが、そうではない美しい人間関係があることをこの石碑は教えてくれる。 

                 文責 田宮 卓

参考文献

土屋雅春 「医者のみた福沢諭吉」 中公新書

佐高 信 「福沢諭吉伝説」 角川学芸出版

宇田川 勝 「日本の企業家史」 文眞堂

郷 仙太郎 「小説 後藤新平」 人物文庫 学陽書房