24年前のあの日、

お釈迦様の手のひらで

激しく転がされるような揺れに

なすすべなかった。


揺れが収まった時、

私は部屋から出られず

めちゃくちゃ焦ったっけ。


それでもなんとか

両親が寝る部屋に

子ども3人ワラワラと集まったな。


明るくなって家の中を見渡すと

家具は全て倒れて、照明は割れ、

足の踏み場が無いくらい

物が散乱してた。


外を見ると、

うちのマンションの周りにあった

木造の家が

全てペシャンコに潰れていた。


1つの家では

屋根が横に崩れ落ちて

二階部分で寝ていた人が

屋上で寝ているみたいに

むき出しになっていた。

あの人、よく助かったなぁ。


明るくなってからの

お母さんの行動は早く

倒れた家具をみんなで起こして

片付けが始まった。


食器棚の食器は全て割れてたのに

モロゾフのプリンのカップだけは

割れてなくて

お母さんと笑った。


後から人の話で

地震の時は、余震があるから、

家具は直しちゃダメだって知った。


でも、生活スペースを確保できたので

私たちは避難場所に行かずに済んだ。


それからは毎日、

家族5人1つの部屋で2つの布団で寝た。

外は雪が降るほど寒かったけど

布団の中はいつもより暖かかった。


ガスも電気も水道も止まってしまったけど

たまたま買いすぎた

食パン2本で2日ほど過ごした。


ラジオを聞くたびに

死者の数が増えていき

いったいどこまで増えるんだろうと

人ごとのように思った。


外を歩くと、

見たことのない光景が広がっていて

〝首都消失〟とかいう映画みたいだと

思った。


父が経営していた書店を

見に行くと

本が全て棚から崩れ落ちていた。


でも、隣の酒屋さんのお酒は

ほとんど割れてしまったので

本屋の被害は少ないなと思った。

まぁ、こんな時に

本どころでは無いけれど。


4日目の晩にウチに帰ったら、

家の電気がついた。

その時の感動といったらなかった!

家族全員で、小躍りして喜んだ。


それからテレビをつけて

地震の規模の大きさを

改めて感じた。


先日、年中の娘が

地震のこと教えてと言うので

そんな事をポツポツと話した。


話しながら、

久しぶりに震災の話をしていると思った。

あぁ、これが語り継ぐという事かな。

私は初めてそれができたのかもしれない。


でも、私の話にはあまり悲壮感がないのだ。

なぜなら、母が笑っていたから。

今思えばあの状況で

よく笑っていたものだ。


子ども3人抱え、

家業の見通しも立たず、

ローンが多く残るマンションは

半壊の状態で。


母親とは因果な商売だ。

そんな時にも笑っていないと

家族全員が沈んでしまうなんて。


24年経った今、

私が今その〝母親〟になっている。

あの時の母のようには

強くはないけれど。


でも、もし今同じことが起こったら

目の前にいる子どもたちの笑顔だけは

死ぬ気で守ろうと思う。

そのために、

とりあえずは、いつも笑っていよう。

あの時の母のように。


食べるトレーニングキッズアカデミー

インストラクター

よしだたみえ