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『若葉萌ゆ』は永吉京子さんの第一歌集で2009年7月にながらみ書房から出版され、これまでに詠まれた作品から345首が収められています。

永吉さんは沖縄県那覇市にお住まいの歌人で、「あとがき」によれば1996年に未来短歌会に入会して近藤芳美先生に師事し、今は桜井登世子さんの選を受けておられます。

私も未来短歌会に所属しており、2007年に「未来」誌の工房月担で桜井登世子・稲葉峯子選歌欄の歌評を担当しました。

1月号でいきなり下記の永吉さんの歌に出合って、強く印象に残りました。地対空のパトリット・ミサイルが沖縄に配置されたことを詠んだ連作の最後に置かれていました。

この島の青き入江の閑かなり迷彩服は脱ぎ捨てて来よ

この歌を初めとして1年間の担当の間に、永吉さんの歌をいくつか取り上げました。
1995年3月に沖縄を訪れた近藤芳美は、永吉さんに「沖縄を詠め。現在の沖縄を詠むんだ。たとえ愚直といわれようとも-----。」と語ったそうです。

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沖縄を詠え沖縄を詠えとぞ近藤芳美の声の聞ゆる


不発弾も遺骨も未だ埋もれるここに真っ白な百合の咲くなり


ああかくも夥(おびただ)しかる死者の数「平和の礎(いしじ)」に名は刻まれし


死者の数二十三万 刻まれし礎の前に立ち竦(すく)みたり


刻銘碑の御影石にぶきひかり帯び打ち抜くごとき摩文仁野(まぶにの)の雨


張り裂くるごとき悲しみ雨のなか礎のかげに涙を拭きぬ


国道を行けど行けどもまだ続く基地の外れに民家が並ぶ


アダンの葉の棘に刺されし傷うずく 真夏の暑き摩文仁の海辺


いつか来た道としてわが記憶せむ摩文仁が丘の真っ赤な梯梧(でいご)


沖縄忌六月のこの島に咲く鉄砲百合という名の悲し


摩文仁嶽(まぶにだき)を九十日にて攻撃せし弾丸は六百八十万発


この基地の向こうにいつも見ゆるもの戦争ひき摺る黒き雲はも


隔ちたるフェンスの中に若葉萌ゆこの基地はつね吾が対(む)くところ

( )内はルビで、一般の人に読みやすいように私が追加したものもあります。

沖縄戦の最後の激戦地となった摩文仁の丘への思いが、たくさん詠まれています。
最後の四首は歌集の後半にありましたが、同じテーマなので移動して一緒にしました。最後の歌には作者の決意が見えて歌集の題名にもとられています。

私は俳句に加えて1997年1月に短歌に挑みました。3月に家族4人で沖縄へ観光旅行に行きましたが、最初に見た南部戦跡の摩文仁の丘、ひめゆりの壕などでショックを受け、その後のリゾートホテルでも頭から離れなかったことを思い出します。

戻ってから連作で歌を作りましたが、行きずりの旅で得た稚拙な作品でした。
地元にお住まいの永吉さんは、近藤さんの教えを守りしっかり詠われています。

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草けぶる壕に今なお拾われぬ骨あまたあり戦後六十年


観光にあらず収骨のためにのみ訪い給う人この冬もまた


花便り届く日せめて一日でも軍用機飛ぶな空澄み透る


コスモスと向日葵畑の若夏を六十年前のこの地は知らず


故郷の山より戦時の骨出ずる摩文仁ばかりが戦跡にあらず


おしなべて島は戦跡ことしまた地を赤うせる五月の梯梧


幼な日を冬ざれのごとき地にありし沖縄戦の記憶を辿る


沖縄忌このはじまりをぎらぎらと炎暑の夏がめぐりくるらし


わが子より若き父なり靄覆う記憶の中の出征兵士


弾痕の窪みに光る水たまり避けつつ通いき登校の道


平和館・平和通り わが町の紙礫(かみつぶて)のような空襲の記憶


鳳仙花のこぼれ種芽吹ける雨上り摩文仁野に人の気配のあらず


うすれゆく記憶をつなぎ母は言う戦(いくさ)の臭いのする六月の雨


泣かぬ子になりたりしという幼き日われは防空壕の中に育ちし


泥濘のかの六月の壕のなか幼き吾は胸までつかりし


基地囲むフェンスの続きその果てに子らの行く道タンポポの咲く

巻末の著者略歴によれば、永吉さんは終戦の年に4歳だったようで、幼い目で沖縄戦を垣間見ていたのです。

戦争は終っても人の心にそして山野に多くの傷跡が残り、容易ではなかった本土復帰と残る経済格差、今だ解決の方向が定まらない米軍基地の移転問題など、沖縄は特有の厳しい状況に置かれています。

それらを題材にして作者にこれからも多くの秀歌が生れることを期待しています。

私も終戦の時は4歳でした。日本の降伏が2ヶ月遅れれば、首都防衛の最前線だった生地館山は、沖縄と同じ激戦地になったことでしょう。

この歌集を読みながら、幼時に経験した空襲などいろいろなことを思い出し、平和の大切さを噛みしめました。

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