1カ月が経った。
少し前に、実にひさしぶりにロッキングオンの最新号を買った。
もちろんボウイの追悼号だ。
それを除けば最近買ったのは、3年前のボウイ帰還特集号。
そしてジギー40周年記念号。
普段はまったく買う気の起きないロッキングオンを買うのは、ボウイが大きくフィーチャーされた号だけ。
過去に掲載されたインタビューをもう一度読みたいから。
その時代ごとに変革してきたボウイの姿をもう一度確認したいから。
そして最大の理由は、山崎洋一郎の編集後記が読みたいから。
立ち読みであっという間に読めるくらいの、モノクロの小さなスペース。
実はここにボウイ特集号の本質があります。
今回の編集後記も、どんな記事よりもボウイの本質を凝縮して伝えてくれた。
ボウイを失うということがどういうことか、腑に落としてくれた。
ああやはりこの男は自分と同じ気持ちでボウイに向かってきたのだ。
ボウイの不在・喪失を、不在・喪失として捉えることができない。
自分も、ボウイを失った直後に大きな喪失感を覚えたけれど、その喪失感に大きな違和感があった。
喪失感自体が違和感であるから仕方がないというだけではなく、喪失感を喪失感として消化できない自分がいた。
自分にとって、デビッド・ボウイとは、リアルな人間ではなかった。
ボウイは作品なのだ。
デビッド・ボウイという音楽なのだ。
いつでも聴くことができる。
いつでも頭の中で鳴っている。
だから、ボウイ自身がいなくなっても、喪失感として理解することが難しい。
自分にとってリアルなボウイは、目の前にいる年を取ったおじさんでもなく、ましてやガンでこの世を去ったミュージシャンでもない。
ここにあるCDであり、ウォークマンに入っているデジタルデータであり、高校時代の暑い夏の日に聴いたハンキードリーなのだ。
そして山崎洋一郎と同じく子供のころから転校を繰り返してきた自分にとって、ボウイは常に心の友達だった。
ボウイは、自分を純度高く作品に昇華していた。
アルバムのジャケットが、そこに記録されている音楽が、ボウイそのものだった。
ボウイはあの頃の気持ちのまま、自分の中に留まっている。
ようやく最近、ボウイ以外のミュージシャンの音楽を聴けるようになってきている。
ボウイはいなくなったわけではないと消化できたから。
むしろ自分の中から永遠にいなくなることはないと理解できたから。