この前、Gorillaz の Plastic Beach の音楽は、その世界観と映像を演出する機能として創られたのでは、と書きましたが、音楽と映像の関係についてちょっと深堀してみたいと思います。
感覚器官として、視覚は聴覚よりも遥かに処理能力が高く、情報量も多いです。
データ量としても、映像は音よりもケタが違います。
だから映像は音楽よりも、はるかに説得力がある。
一目瞭然、というやつですね。
音楽は、情報量が少ない分、説得力に欠ける分、その隙間は受け手に委ねられる。
だから、音楽にはイメージを喚起させる力がある。
そしてそのイメージは人によって千差万別であるのは、当然です。
ところが音楽とともに映像が流れる場合、映像はその説得力でもって、その音楽が喚起するイメージを固定してしまいます。
これは映像と音楽の圧倒的な情報力の差なので、いかんともしがたい。
特に意味のある映像、ストーリー性を持つ映像ほど、脳の情報処理は視覚に集中します。
映像に引き寄せられ、どんな音楽が鳴っていたかなどは、記憶が定かでない場合が多くなります。
憶えているのは、せいぜいリズムと大雑把なメロディくらい、なんてあるのではないでしょうか。
元来、音楽至上主義の僕としては、音楽を聴くときは、脳の処理能力の大半を注ぎ込んで聴きたい。
その大半を映像処理に根こそぎもっていかれるのは、つらい。
PVを創ることは当たり前の時代になっているし、僕もやっているように音楽を紹介したり探したりする時は、YouTubeを利用します。
そこにはなんであれ、映像がついてくる。
音楽に集中できる映像、阻害する映像、いろいろありますね。
だから、音楽に付加する映像は、音楽のイメージの広がりを邪魔しない、むしろそれを拡大させるくらいのものがちょうどいい。
映像が、音楽のもたらすイメージを広げてくれるのは、ライブ映像なんてのがそうですね。
光と動きの演出が、ミュージシャンの姿が、音楽のスケールと感動を高めてくれます。
でも、ライブでも巨大スクリーンに意味のある映像が流れると、脳の情報処理はどうしてもそっちに引き寄せられる。
それは視覚と聴覚の差によるものなので、どうしようもありません。
すると音楽への興味が散漫になる。
音楽は映像に隷属するものではなく、主体として成立するものとして、音楽そのものの力を増幅してくれる映像。
先日ご紹介したボウイの Ashes To Ashes のPVなどはその好例だと思うのですが。
かといって、機能としての音楽を否定するわけじゃありません。
たとえばアンビエントミュージックなどは有効なコンセプトだと思います。
環境が主役で、音楽はその一要素として存在している。
同じように、映画音楽も映画の一要素として成立した音楽。
そしてそれらは、映像と音楽の関係を見据えた上で創られた、機能としての音楽です。
ときどき、機能を超えて、主役になってしまうくらいの存在感を持つ映画音楽もありますが。
要は、目的意識・立ち位置がしっかりしていれば、ということ。
Gorillaz でも、Plastic Beach では音楽は世界観を創るものとして、機能してる。
その分、音楽単独としてはちょっとツマらんわけですが。
Plastic Beach という世界観・映像の一部として創られた音楽。
Ashes To Ashes という音楽の世界のイメージを拡大するための映像。
やっぱり、自分としては後者を選びたい。
音楽は、いつまでも主役でい続けて欲しいです。
負けるな、音楽。