いよいよジェネシス編、最終回です。
Invisivle Touch から5年たった1991年。
5年というと、小学生だった人は高校生に、高校生だった人は社会人になっているような年月。
ファン層も、音楽シーンも、ムーブメントも大きく変わっています。
変わらないのは、コアのファン層と、音楽を消費するだけのマスという、二極にある人たち。
重要な中間層は、激しく移り変わっています。
特に日本では、1980年台後半は空前のバブル期。
音楽シーンは金満と飽食に囚われたディスコブームが、音楽を消費し続けてました。
イギリスでは、ブリットポップ、なかでもザ・ストーン・ローゼスを中心としたマンチェスタームーブメントがシーンを大きく動かしている真っ最中。
アメリカ人がわかりやすいプログレ風ポップスまで音楽の質を変化させていったジェネシス。
その先にあるものは、何か。
このまま今の路線を続けるのか。
地元で、世界で起きている音楽のうねりに無関心でいられるのか。
自分たちにできるものは何か。
求められているものは何か。
おそらく、アルバムタイトルと創る音楽の方向性が先に決まったのでしょう。
We Can't Dance 。
この言葉が、自分たちはできることを推し進める、なのか、自分たちにできることはここまで、を意味しているのかは、本音のところはわかりません。
そして創られた音楽は、基本アレンジのシンプルなメロディラインのわかりやすい前作路線です。
しかし、微妙にトーンが違う。
ノリのよい明るい曲においても薄いグレーのスクリーンがかかったような雰囲気。
とても穏やかなフィルのソロアルバムに出てくるような曲もある。
全般的に、テンポが緩やかに、落ち着いて、しっとりした印象。
プログレ風の大作や組曲もありません。
ジェネシスが創った、大人のポップスですね、全体の印象としては。
しかし、大きな違和感が1点。
タイトル曲である、We Can't Dance 。
この曲だけが浮いてます。
ノリの悪い、ギクシャクしたリズムをあえて使って、メッセージを込めようとしたのかもしれません。
アレンジもメロディラインもアメリカ人を意識したのか?
奇をてらったのか?
この曲さえ入っていなければ、なかなかに素晴らしいアルバムです。
大人のポップスだけを入れて We Can't Dance とやれば、素晴らしかったのに。
アルバムのジャケットも、それにふさわしい落ち着いたトーンです。
ジェネシスは、ガブが脱退してからコンセプトワークが弱くなりました。
アルバムタイトルとタイトル曲の、バランスが取れているようで取れていないアンバランス。
深掘りされていないコンセプト。
それでもこのアルバム、今では愛聴盤のひとつとなってます。
他のジェネシスのアルバムももちろんそうだけれど、聴くうちにこのアルバムが好きになってきました。
なにか穏やかに達観したジェネシスがいます。
思うに、ジェネシスとは、雲上で輝く光であったのではないだろうかと。
光が出来た時、ピーター・ガブリエル、スティーブ・ハケットという、光に陰影や表情を創りだす雲となれるメンバーがいた。
彼らが光と影やグレーのグラデーションを織りなしながら、時にはミステリアスに、シアトリカルに、その光のポテンシャルを生かした、イギリス的な音楽を創ってきた。
光が創る影は、時には強く、時には弱く、物語を創った。
ひとりの雲がジェネシスから抜けた時、光は、Wind And Wuthering のジャケットのうす明るい空のように、陰影の薄いグレーの空からさす太陽のような存在になり、光がつくる影はおぼろげなものに変わった。
そして、さらにもうひとりの影が脱退した時、さえぎるものがない、光となり。
さえぎるものがない光は、 Duke という輝きを放ち、その雲がない自らの明るさに戸惑い、昔のアイデンティティである影をもとめながらもついに諦め、自分たちはこのさえぎるものがない光として存在する決意をした。
しかし、さえぎるものない光は、それ以上の輝きをもつ光にはなれない。
目標を失い、自らのエネルギーの衰えも感じた光は、姿を隠した。
そして、再び現れた時、すでに沈みゆく光として、光量を落とし、穏やかな、淡い光を放つことで自らの存在を示した。
ジェネシスが沈む前に、最後に放った光。
それが We Can't Dance の最後の曲、Fading Lights 。
光は、この曲とともにゆっくりと輝きを止めました。
この後の光に似たものは、残照でしょう。
もしくはビジネスの論理で行われた再放送のようなものとして、把握しています。
Invisivle Touch から5年たった1991年。
5年というと、小学生だった人は高校生に、高校生だった人は社会人になっているような年月。
ファン層も、音楽シーンも、ムーブメントも大きく変わっています。
変わらないのは、コアのファン層と、音楽を消費するだけのマスという、二極にある人たち。
重要な中間層は、激しく移り変わっています。
特に日本では、1980年台後半は空前のバブル期。
音楽シーンは金満と飽食に囚われたディスコブームが、音楽を消費し続けてました。
イギリスでは、ブリットポップ、なかでもザ・ストーン・ローゼスを中心としたマンチェスタームーブメントがシーンを大きく動かしている真っ最中。
アメリカ人がわかりやすいプログレ風ポップスまで音楽の質を変化させていったジェネシス。
その先にあるものは、何か。
このまま今の路線を続けるのか。
地元で、世界で起きている音楽のうねりに無関心でいられるのか。
自分たちにできるものは何か。
求められているものは何か。
おそらく、アルバムタイトルと創る音楽の方向性が先に決まったのでしょう。
We Can't Dance 。
この言葉が、自分たちはできることを推し進める、なのか、自分たちにできることはここまで、を意味しているのかは、本音のところはわかりません。
そして創られた音楽は、基本アレンジのシンプルなメロディラインのわかりやすい前作路線です。
しかし、微妙にトーンが違う。
ノリのよい明るい曲においても薄いグレーのスクリーンがかかったような雰囲気。
とても穏やかなフィルのソロアルバムに出てくるような曲もある。
全般的に、テンポが緩やかに、落ち着いて、しっとりした印象。
プログレ風の大作や組曲もありません。
ジェネシスが創った、大人のポップスですね、全体の印象としては。
しかし、大きな違和感が1点。
タイトル曲である、We Can't Dance 。
この曲だけが浮いてます。
ノリの悪い、ギクシャクしたリズムをあえて使って、メッセージを込めようとしたのかもしれません。
アレンジもメロディラインもアメリカ人を意識したのか?
奇をてらったのか?
この曲さえ入っていなければ、なかなかに素晴らしいアルバムです。
大人のポップスだけを入れて We Can't Dance とやれば、素晴らしかったのに。
アルバムのジャケットも、それにふさわしい落ち着いたトーンです。
ジェネシスは、ガブが脱退してからコンセプトワークが弱くなりました。
アルバムタイトルとタイトル曲の、バランスが取れているようで取れていないアンバランス。
深掘りされていないコンセプト。
それでもこのアルバム、今では愛聴盤のひとつとなってます。
他のジェネシスのアルバムももちろんそうだけれど、聴くうちにこのアルバムが好きになってきました。
なにか穏やかに達観したジェネシスがいます。
思うに、ジェネシスとは、雲上で輝く光であったのではないだろうかと。
光が出来た時、ピーター・ガブリエル、スティーブ・ハケットという、光に陰影や表情を創りだす雲となれるメンバーがいた。
彼らが光と影やグレーのグラデーションを織りなしながら、時にはミステリアスに、シアトリカルに、その光のポテンシャルを生かした、イギリス的な音楽を創ってきた。
光が創る影は、時には強く、時には弱く、物語を創った。
ひとりの雲がジェネシスから抜けた時、光は、Wind And Wuthering のジャケットのうす明るい空のように、陰影の薄いグレーの空からさす太陽のような存在になり、光がつくる影はおぼろげなものに変わった。
そして、さらにもうひとりの影が脱退した時、さえぎるものがない、光となり。
さえぎるものがない光は、 Duke という輝きを放ち、その雲がない自らの明るさに戸惑い、昔のアイデンティティである影をもとめながらもついに諦め、自分たちはこのさえぎるものがない光として存在する決意をした。
しかし、さえぎるものない光は、それ以上の輝きをもつ光にはなれない。
目標を失い、自らのエネルギーの衰えも感じた光は、姿を隠した。
そして、再び現れた時、すでに沈みゆく光として、光量を落とし、穏やかな、淡い光を放つことで自らの存在を示した。
ジェネシスが沈む前に、最後に放った光。
それが We Can't Dance の最後の曲、Fading Lights 。
光は、この曲とともにゆっくりと輝きを止めました。
この後の光に似たものは、残照でしょう。
もしくはビジネスの論理で行われた再放送のようなものとして、把握しています。