強豪のBCDか、弱小のAか | たまたまや、ゆうねん

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表題のテーマは小6の秋以降、つまり練習会やセレクションのシーズンにつきまとう問題ですね。

BBSなどでは、強豪のBCDの悲惨さを言いつのる人が多く、私などは首をかしげてしまいます。
一方で中堅・弱小のAを自慢にする、その選択をよかったとする声は案外聞こえてきません。

たしかに少年団でエースか2番手くらいだった子は、中堅や弱小はもちろん、大所帯なら強豪にも、ひっかかるかも知れません。J下部や企業系(養和や横河)などの小所帯の強豪はなかなか難しいのでしょうが。

そこで悩むわけですね。レギュラーや中心選手でいけそうな中堅や弱小にするか、CやDすら覚悟しないといけない大所帯強豪にするか。

大所帯強豪のBCDで過ごすことをdisる意見としては、

■公式戦に出られないので成長の大きな機会を失ってしまう
■練習試合ですら一日潰して15分出るだけ
■普段の練習すらグランドの大部分はABが使用し、CDは隅っこで鳥かごしている
■控え人生なら、3年次の5月くらいに見切りを付けて受験勉強した方がずっといい
■そもそも1学年50人を一人の指導者がみるなんてあり得ない。

というような声です。じゃ、弱小のAはどれほど幸せなんでしょう。
上記項目をひとつひとつ検証してみましょう。

□公式戦に出られるので成長できる。
 →公式戦には確かに出られるが1次リーグか2次リーグ、せいぜい3次リーグまでで、しかも弱小中堅チーム同士のゲームで、レベルはさほど高くない試合になってしまう。関東大会・全国大会のような身を切るような厳しい戦いには3年間ありつけない。つまりレギュラーでも、成長にはあまり意味はない。
□練習試合にも出られる。
 →練習試合を組むにしても弱小チームは、強豪が相手してくれるはずもなく、やはり弱小同士・中堅同士のゲームになりがちで、成長に関しては意味はない。
□普段の練習はしっかりグランドの真ん中でできる。
 →CDがグランドの隅っこで鳥かごをずっとさせられるチームなど存在するのか? 少なくともF多摩はA~Dまで平等にグランドを使用している。
□3年次の大会が終わるまでレギュラーなので秋までは公式戦がある。
 →強豪高校からスカウトが来るわけでもないのに秋までサッカーをしてて受験は大丈夫か? F多摩は3軍くらいまで推薦で進学できるという説があるが。
□1学年23人をコーチ1人が見ているから目配りが利いて成長できる。
 →F多摩に限れば、1学年45人前後を少なくとも2人以上(多い日は監督主任キーパーコーチを合わせると最大5人くらい)の指導者で見ているので、一人当たりは23~9人である。そもそも23人だろうが、15人だろうが、コーチが1人というのが危険。そのコーチのサッカー観に合わない選手は伸びにくくなってしまう。指導者の目は複数で、しかも学年が変わるごとにチェンジしていった方がいい。

というように、ほとんど否定できるわけです。弱小チームのAに意味がないのか、というと決してそうではありません。「上手くなりたいのか、楽しみたいのか」の大前提が欠落していると言いたいのです。

「上手くなりたい」なら、弱小のAや中堅のAに行っても仕方がありません。その世代でトップクラスの選手達のスピードやテクニックを肌身で感じなければ、成長はありません。強豪に行くしかないのです。「強豪に行ってもBCDじゃ試合に出られないので意味がないじゃないか」という反論が聞こえてきそうですが、そうではありません。強豪のAはすでにその世代のトップクラスなんです。つまりチーム内で1対1をやっても、ミニゲームをやっても、トップクラスの実力を肌身で感じることができる訳です。また、本当に「上手くなりたい」なら、BCDにいる現状をなにくそと発憤材料変えられる子じゃないといけません。

中学時代にサッカーを「楽しみたい」のなら、精神的にも技術的にも肉体的にも厳しい日々が続く強豪にいくより、弱小に行くべきです。小所帯の弱小チームは全員がほぼレギュラーですから、ゲームにも出られますし、チーム内に激しい競争はないでしょうから精神的に負荷はないでしょうし、10点差で負かされるような強敵と当たることもないので楽しいサッカーライフが送れます。

文句をいう親はふたつのパターンです。
ひとつは、「さほどでもない現状より、上達はさせたいが、控えはいやだ。レギュラーで出場し続けながら上達させたい」というあれもこれものわがままタイプ。
もうひとつは、「強豪のBCDや大所帯の控えの子達を見ていると悲しくなる。我が子にはそういう風にはならないでほしい」という激甘タイプ。

人生は荒波に満ちています。
懸命にやっても努力し続けても、届かない世界があることを知るのは大変よい人生勉強です。
「やればできる」なんていう局面はなかなかないのです。「やってもできない」ことの方が多いのが現実です。しかし、やり続けることが尊いのです。人間の尊厳はそこにあると言っていいくらいです。懸命に努力する機会を奪うのが、「楽しく過ごす」というシフトチェンジです。サッカーで努力することを放棄させるならば、勉強やピアノや似顔絵描きや魚捌きなど他のことで努力させなければなりません。社会に出るまでに、「努力し続けたらできた」という成功体験と「やっても無理な厳しい世界もある」という失敗体験を経験させないといけません。そうでないと社会に出てもすぐに引きこもってしまうような脆弱な精神になってしまいます。「やったらできた」は少年団時代にエースか2番手だったわけですから、すでに経験しているでしょう。次に必要な精神は、努力することと挫折することです。

「自尊感情」と「挫折経験」と「努力する精神」。
このみっつが子どもを世に出すときの、親が与えてやれる最高の武器です。

社会という荒波を泳いでいくときに必要な力は、学歴や財産などではないのです。