ほぼ一年ぶりに更新する気になったのだけど、思い立ったテーマはくしくも前回同様「理性」がらみ・・なにげにずっとおれの傍らにこのテーマがよこたっわっているみたい。。。
山口の母子殺害事件の差し戻し控訴審での意見陳述が今日もニュースで流れている。
いつも、クレバーで理路整然とした本村氏の発言がそれとは裏腹なやりきれない心情を濃厚に物語っている。
もちろん、世間と同じように怒りを感じる。
被告の元少年とやらの往生際の悪さや弁護団の到底理解することの出来ない主張がなんとも不快でたまらない。
(この件については、奇をてらった発言や変に距離をとった考え方を持とうと思わない。)
生きることへの執着。
ここまでのすべての行為が元少年の生きることに対するテーマなのだろう。
我々のゆるぎない基準として「生きる事」がある。
そして、生きる為に生かすことに喜びを感じる。
これは全て「理性」という人間がかかえてしまった、やっかいな道具のなせる業。
生きとし生けるものの真実のテーマは「滅びる事」であるはず。
「理性」は「滅び」を拒みつづけるのだ。
環境問題が取り沙汰され、地球の危機を人間が発信している。
そして、なによりこの危機は人間が構築していった螺旋なのだということを人間自身が認識している。
どんなに、「理性」を駆使し環境問題に取り組もうが滅び行く加速度は抑えきれないような気がする。
なぜなら「理性」の根底には「生きる事」があるから・・・。
酸素は基本的には「毒」だといった専門家がいた、しかし酸化していくこと錆びていくことが地球観念の一つの摂理であるならば、それに抗おうとしている唯一のばい菌は人間の「理性」なのではないかと強く感じている。
そう、「理性」さえなければ人間という生物は従順に死に絶えていたのでは・・・いや自然淘汰の元に同調する生命体としていまより生物としての可能性をもって存在していたか・・・
ともあれ、「理性」は人間にとっても、他の生命体にとってもはたまた地球そして宇宙環境にとっても厄介なものなのだ。
滅びる事はけっしてネガティブな選択ではない!
せめて滅び行く方法論をその厄介な理性をつかって論じてみたいものだ。
久しぶりの、今日の玉鮭
「明るく、元気に、前向きに、滅びの螺旋に方向転換しようじゃない!!」