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《 『マイ・フーリッシュ・ハート』、他 : ヴィクター・ヤング作品集 》(米デッカ)
エリス・ラーキンス(p)、ジョー・ベンジャミン(b,※A-1/A-6/B-6のみ)

猫の日、ということでデッカの猫ジャケで知られたレコードを聴く。

エリス・ラーキンスは僕がもっともよく聴くジャズ・ピアニストのひとり。あまり表舞台に出たがらず、黒子志向のピアニストだったから、知ってる人には熱心なファンが多いけれども、知らない人にはとことん知られていなかったりする。あ、黒子といっても「白井黒子とは何の関係もございませんの」ということで、これも知ってる人にしか分からない戯れ言とお許し願いたい。

そんな地味なラーキンスのレコードのうちの何枚かは、なぜか中古盤屋に行くと物凄く高い値段を付けて売られている。というか大抵は「ヴィンテージ盤セール」の目玉品となって恭しく壁に飾られており、なおかつそんな高額をものともしないコレクター氏に目ざとく見つけられてスグに売れてしまうのだ。お陰で低予算コレクターの僕はいつまでたってもラーキンスのオリジナル盤をコンプリートすることが出来ないでいる。面白いのは、それほどの人気を誇るラーキンスのレコードが(おそらくは)ラーキンス目当てでは売買されていないということなのだ。察しの良いあなたならもう気付かれたであろう。そう、ラーキンスの高額盤というのは、リーダー作ではなく彼が伴奏をつとめた女流ヴォーカルのLPのことなのだ。ビヴァリー・ケニー、リー・ワイリー、クリス・コナーといった錚々たる名花たちのLPのいくつかで絶妙なピアノを弾いているのが僕の愛して止まないラーキンスなのである。

エリス・ラーキンスは1923年ボルティモアに生まれ、4歳から父親の手ほどきでピアノをはじめるとメキメキと才能を伸ばし、やがて生地ボルティモアの名門ピポーディ音楽院に黒人として初めて入学を許されたほどの天与の才に恵まれたピアニストだった。ラーキンスはさらにジュリアード音楽院へと進み研鑽を重ねるのだが、1940年代のアメリカに黒人のクラシックピアニストが活躍するフィールドは然程も無く、彼は夜のニューヨークでジャズピアニストとして生きることになった。

高学歴の黒人ミュージシャン、ということが彼の裏方志向をいっそう強くしたことは想像に難くない。1940年代アメリカの、とくにポピュラー音楽の業界では黒人は勿論のこと、白人のミュージシャンにしてもジュリアードのような名門で高等教育を受けた人間は少なかった。知的で教養があり物静かで、楽理に通じ、圧倒的なピアノの技術も身につけているラーキンスが、そうした中で嫉妬や羨望や蔑みの混じった軋轢をものともせずに伸び伸びと生きていくことが、些か困難な時代ではあったのだ。

ラーキンスのズバ抜けたセンスと技術と理論はミルドレッド・ベイリーやエラ・フィッツジェラルドといったトップシンガーから絶大な信頼を集め、数々のライヴやセッションでピアノを受け持つことになる。業界にはこの若き才能に期待を寄せる大人たちも多くいて、ストリーヴィルやデッカはラーキンスのリーダー作をリリースした。

この「The Soft Touch」はラーキンスがデッカに残したリーダー作の1枚で、ベースのジョー・ベンジャミン参加の3曲を除けばあとは、純然たるソロ・ピアノのアルバムである。1950年代当時は大御所でもない限り、よほどの音楽性と技量がなくてはソロだけのアルバムは作れなかった筈で、実際ラーキンスはとても素晴らしく美しいピアノを弾いている。彼はアルバムのライナーで「ファッツ・ウォーラーとテディ・ウィルソンに多くを学んだ。アート・テイタムからは何から何まで影響を受けた」と語っており、それは真実だと思うけれども、本当はもっとその先の言葉のあることが演奏からは窺える。そう、明らかにラーキンスのピアノ・ソロにはバッハから後期ベートーヴェン、晩年のリストへと受け継がれたピアニズムの系譜が脈々と流れており、またドビュッシーやラヴェルあるいはラフマニノフやスクリャービンを経たポジション、そしてミニマルの萌芽を孕むポジションすら見えるのだ。しかし、そのようなことをたとえ自分のアルバムのライナーであっても滔々と述べれば、思わぬリアクションもあるだろう。クレバーなラーキンスは、そんな波風を立てるようなことはせず、音に語らせるのみだ。右手がメロディを叩き、左手はバンバンとコードを刻むような、単純なことはしていない。リズムやテンポを自在に操り、ときにポリフォニックな動きを見せたり、斬新なペダリングや音域を使ったりして、ヤングの美しい旋律を見事に構築してみせる。ライナーでラーキンスはヤングの魅力について、リリシズムやセンチメンタリズムもさることながら、音楽の構造そのものに興味を引かれるのだと(ちょっぴり本音を)語っている。アルバム全体にリラクゼーションをもたらすというコンセプトを貫いて、ひとつの有機体として美しくまとめてみせた手際には圧倒されるのみだ。

満を持してのリーダー作なのに、デッカに残したラーキンスのアルバムには1枚も彼のポートレートをあしらったジャケットはない。猫ジャケだったり、マンハッタンの夜景だったり、美男美女の白人モデルだったり、もちろん他のレーベルから出たリーダー作もそれは同じで、風景やモデルが使われている。若い頃のラーキンスの知的な風貌を見れば、けっしてジャケット映えしないから、などの理由でないことは分かる。

1958年デッカからこのアルバムともう1枚をリリースしたあと、裏方志向のラーキンスは本格的に表舞台から姿を消してしまう。その後はスタジオミュージシャンとして、また音楽の先生として裏方に徹するのだ。なお、音楽の先生といっても学生相手の先生ではなくて、プロのシンガーやミュージシャンたちにトレーニングをする、いわば「先生たちの先生」をしていたのである。

その後、デジタル時代になって再びリーダー作をリリースしたラーキンスだけれども、やはりジャケットには姿を出さず、美人モデルがあしらわれていたりするのであるが、それはまた別の話で。