第五章「風を立てる皿」
百貨店の屋上テラスは、夕暮れ前の風が走っていた。
西の空は杏色、東は群青。塔の時計が六時を指す少し前、人の列が階段に吸いこまれていく。
「タイトル、掲げます」
西園寺琴音が黒板に白いチョークで書く。
——『風を聴く皿 ― 氷室の口笛』
長机の上、砂原翠は最終の仕込みに指を走らせた。黒漆の皿の中央に琥珀糖を三角に組む。その周りを、糸のように細い寒天で輪にする。輪の一部を持ち上げ、竹のピンで支えると、半透明の「風のアーチ」が立った。
小さな雫瓶には、柚子のしずく。客に一滴落としてもらえば、角が揺れ、——シャリン、と鳴る仕掛けだ。
「反射板、ここ」
牧田空が白い和紙を二枚、クリップで柵に留める。夕陽を受けた柔らかい光が皿の骨格を起こす。「風は正面からじゃない。斜め四十五度。皿の影を細くしたい」
「風が強くなってきた」
琴音が空を見た。街のビルの隙間を抜けた突風が、テーブルクロスをはらりと持ち上げる。
「ここは屋上。風と仲良くする設計でお願いします」
琴音は笑い、すぐ無線でスタッフに指示を飛ばした。
開場。
最初の客はランナー姿の若い女性、次に観光客のカップル、続いて仕事帰りのスーツの群れ。加代や坂東も、町内の顔をそろえている。
「お一人ずつ、雫を一滴。音を聴いたら、一口で」
翠が皿を差し出す。
女性が雫を落とす——光る糸がわずかに震え、琥珀糖の角が鳴った。
——シャリン。
目がほどけ、スマホのシャッターが続く。空のカメラは、客の驚きの表情と、皿の上にできる一瞬の風景を交互にすくっていく。
二十人目を超えたころ、空が眉を上げた。「雲、来る」
南から黒い帯が走り、屋上の風が一段階、重くなる。
——突風。
バサッ、と反射紙がめくれ、アーチが揺れ、ピンが一本抜けた。
「押さえます!」
坂東が紙を抱え、加代がテーブルの脚に紐を結ぶ。
それでも風は二度、三度と押し込み、立てたアーチがへたりかける。
「中止を——」警備員が手を広げかけた、その瞬間。
翠は竹ピンを抜き、アーチの根本に指を差し入れた。寒天糸を一気にほどき、空中に放つ。
風が糸を攫い、皿の上に弧を描く。
「……こうします」
彼女はピンセットで糸の端を掴み、器の縁から縁へ渡した。もう一本、もう一本。風に揺れる細い弦。
「ハープみたいに」
空が息を呑む。
「お客さん、雫は弦に」
翠が雫瓶を渡す。
ぽとり。糸が震え、複数の角が重なって鳴る。
——シャラリン。
風に合わせて、音が高く低く、揺れた。
人の輪が一歩、二歩と近づく。琴音が目を細める。「止まった」
「風が、皿の中に入った」
空は反射紙を片手で持ち直し、もう片方でシャッターを切った。彼の肩を、町の風が押す。髪が額に跳ね、目は笑っている。
雨の序章のような細い霧が通り過ぎる頃、警備員が再び近づいた。「安全のため——」
「弦は食べられます」
翠が即答する。「針金ではありません。寒天です。落ちても割れません。——ここは『食べる楽器』のスペースです」
警備員は言葉を飲み込み、琴音が穏やかに会釈した。「責任は当方で負います。五分だけ、風の演奏を」
その五分が、夕暮れを変えた。
弦に雫が落ちるたび、音が立ち、人々の肩がほどけ、まばらな拍手が波のように広がる。
空は客の背中越しに、翠の横顔を撮った。指の節、濡れた睫毛、風に揺れる青い手拭い。
——そのとき、ポケットが震える。東京の番号。
ほんの一瞬、空の視線が遠くへ行った。
翠はそれを見た。雫瓶を空に手渡す。「受けて」
「今?」
「今。ここに風があるうちに」
空は頷き、柵の影へ下がって通話を繋いだ。
「はい。受けます。ただし一つ条件を——祇園前のこの一週間は京都にいる。戻る場所のための仕事がある」
短い沈黙ののち、相手が快諾する声。空は息を吐き、戻ってきた。
「行く。でも、戻る」
「戻る場所、用意しておく」
翠は弦を貼り替えながら言う。「名前、決めました」
「聞かせて」
「『川風の約束』。氷室の口笛は中の名前。皿の名は、約束」
空は笑った。
「写真のタイトルも、それにする」
最後の客が弦に雫を落としたとき、雲は切れ、空はふいに金色になった。
空(そら)が金色になる、という言葉が、そのまま現実になったみたいに。
空(から)っぽの皿に、風の弦が一本だけ残り、——シャリン。
細い音が線香花火の最後の火花みたいに鳴って、消えた。
大きな拍手。琴音が近づき、軽く手を叩く。「勝ち。——週末の二回目、お願いできる?」
翠は息を弾ませて、頷いた。
「できます。町家にも、持って帰る」
空は肩越しに京都の街を振り返った。夕闇が降り、点々と灯りが灯り始める。
「明日、工事が入る。支度、手伝う」
「うん。……行く前に、もう一度、川で鳴らそう」
「約束」
空は右手を差し出し、翠は濡れた指で握った。指先に砂糖の粉が移って、彼の掌に白い星が一つ灯る。
それは、戻ってくるための、小さな北極星だった。