執筆年月】2011年1月

1993年8月の出来事


段々「旅コラム」みたいになってきたが、もう暫く過去の旅の思い出を続ける。

そもそも「行き当たりばったりの旅」好きの原点は父親譲りの部分が大いにあるようだ。


あれはまだ高校生ぐらいの頃だろうか…
父親の盆の休暇を利用して、弟と三人で車で「何処か」に行く事が決まった。
目的地を定めない、何処かへの旅である。

8月のまだ暗い深夜の大阪を出発。
とりあえず父親の運転で阪神高速から中国道に向かう。


岡山までは墓参りでよく訪れていたので、割と景色や途中のインターの名前も見慣れたものだった。
北房ジャンクションから先は未知の世界である。
広島県に入った辺りで、激しい雷雨に見舞われた。
視界を遮る猛烈な雨は時に凶器と化し、危うくスリップ事故を起こしそうになった。
それでも車は西へ針路を取った。
中国道は島根県の南端をかすめ、山口県に入る。ようやく夜が明け始める。
旅の行程で夜明けを迎える瞬間にときめきを感じるのは、父親との共通認識である。
既に激しい雨は止んでいた。

朝日を浴びて関門橋を渡る。この時九州初上陸
まだここまで高速を一度も出ていない。北九州市も福岡市も華麗にスルーして、佐賀県に入る。


実は「流れ」で一応目的地は定めていた。
長崎だった。
ハウステンボスに行こう。長崎の街にも行こう、と。
当時部分開通していた長崎道の終点で降りる。実にここまで所要10時間。東京へ行くより長時間かけた。

最初の目的地、ハウステンボスへ。
写真や映像で見た以上の感動こそなかったが、ここで食べたチーズフォンデュは美味だった。


あまり長くは滞在せず長崎市内へ。
宿も決まり、夜の市街地へ繰り出した。
ライトアップされたグラバー園は見事だった。建物も当時を偲ばせる佇まいで、異国情緒を楽しめた。
夕食は名物、皿うどんを食したが、驚くほどぬるかった


翌日は再びアテのない旅を、車は島原半島へ向かう。
未知の地の車窓を見る他は特にする事なく、フェリーで天草へ。
ひたすら走っていたらもう夕暮れだった。
帰りの高速に乗る前に腹拵えをと立ち寄った、松橋インター近くのラーメン屋。
ここの熊本ラーメンが最高にうまかった。
松橋のラーメン仙台の牛タン弁当
この二つは、今でも生涯のベスト2に入っている。

そして一行は松橋から九州道、山陽道と、サービスエリア以外の寄り道は一切せずに大阪に向かったのであった。


高校生当時なので、運転の交代は一切なし…


あとがき(2024年6月のコメント)


この当時、毎年の夏休みに岡山の成羽町(現・高梁市)にある父方の先祖代々の墓参りに行くのが恒例行事になっていた。

で、出発はいつも夜明け前。

現地に着いた頃に日の出を迎えるという算段だ。

こういった日は一日を長く感じられる。

墓参りを無事に務めたらあとはオプショナルツアー。過去には瀬戸大橋を渡って四国上陸だったり、牛窓で釣り三昧&ペンション宿泊だったり、倉敷観光だったり…


しかしこの年は少し違った。

夜明け前ではなく夜中の出発。だからこの年は備中地方を未明に通過するため、墓参りには立ち寄らなかったか、暗闇参りだったかも知れない。

岡山県を出るまではお天気に何の心配もなかったのだが(ここは流石に晴れの国)、本文にある通り広島県で激しい雷雨に見舞われる。

あの時のヒヤリハットは未だに鮮明に記憶に残ってる。一瞬終わったと思った。

父親の運転なんだけど。


いつもは兵庫・岡山県境あたりで迎える夜明けは島根・山口県境あたりで迎えた。待ちに待ったデイブレイクだ。車載のテレビでは「JOLI-TV tys テレビ山口です。只今より本日の放送を開始します」などとコールサインが流れてくる。

こういう情報から、マジで今山口県に来てんだと実感するガチの電波系だ。

とか感動している間にいつしか関門海峡を越え、九州初上陸。


車窓の変化というよりはKRYからRKBKBCが受信できるようになったことで九州入りを確認するマジもんの電波系

そしてマークⅡグランデはさらに西を目指す。


福岡県、佐賀県を過ぎて西のはて長崎県へ。

あとは本文の通り、ハウステンボスとグラバー園観光。

激ヌルイ皿うどんにガッカリしているのを尻目に、ご当地メシには拘らない「食べたいモンが食べたい」弟の選んだカレーライスが大正解だったと思う長崎の夜はむらさき


二日目。

このまま大阪に帰るのはもったいないと言わんばかりに、長崎からさらに南へと針路を進め、やってきたのは島原半島。

特にここへ行きたいという目的もなく、知らない道をただひたすら走るってだけのさすらい旅。だがこれが至高。

どことなーくだけど、出川バイク旅にも通じるモノがある。ね、これって絶対楽しいよね(価値観の強要)。


島原の乱の舞台で天草四郎に想いを馳せていたかどうか、当時の記憶は定かではないが島原から天草までフェリーが出ていたので車とともに海を渡り、熊本県へ。


そして(筆者史上)伝説のラーメン屋との出会い。田舎の小さなラーメン店だった。

店には14型ぐらいのブラウン管テレビが置かれており、ちょうど世界陸上(独・シュトゥットガルト大会)が放送されていた。

女子マラソンで浅利選手が金メダルを獲得する正にその瞬間を、ラーメンすすりながら、かつ手に汗握りながら見守っていた。

そんなことも相まって、白湯豚骨・海苔と紅しょうがたっぷりの九州ラーメン(と餃子)の味が忘れられないものとなったのだ。


男子100ではリンフォード・クリスティ(英)、女子ではゲイル・ディバース(米)やマリーン・オッティ(ジャマイカ)らが活躍していた時代だ。

棒高跳びのブブカ、走り幅跳びのパウエルなど思い出に残る選手がいた。

だがやっぱりラーメンだ。

残念ながら店の名前も正確な位置もわからない。後にグーグルマップで「松橋IC近く」のラーメン店を調べ尽くしてみたが、現存していないかもしれない。

それでも生涯第一位は未だに破られていないのだ。


これでもう満足だ。心置きなく大阪に帰れる。

九州を抜け、山口県に入った頃には日付も変わっていたはず(FM山口のクロージング放送が記録されていたので、日曜日の25時ぐらいに通過)。

そして帰り道にも雷雨に遭うのだった。


何度も言うが、運転は父親一人だった。

タフな親父だ。