執筆年月】2011年2月
推定1994年8月28日の出来事
(一部2つのエピソードを繋いで編集)

はっきりした日付は覚えていない。大学二年の夏の終わりの日曜日という事だけの記憶だから、1994年8月28日ではないかと推測される。
この日ほど一日を長く感じた日はなかった。

大学の紹介で、朝からある国家試験の試験官のアルバイトの為夕方近くまで大学にいた。これは予定されていた行事で、無事に終了した。
帰宅して親からある知らせを聞き、衝撃を受けた。
中学高校時代の恩師の訃報だった。
通夜が今夜あるとの事で、すぐに着替えを済ませ奈良に向かった。
恩師は音楽教師で、音楽は唯一得意科目であり、その恩師が亡くなった事は非常にショックだった。
だが不謹慎ながら、ここであの後輩の娘に会えないかな…という一縷の望みも捨てられなかった。
こんな場なんで、あまり会話はできないだろう。しかし、会いたい気持ちに嘘はつけない。

結局会うことはできなかった
二重の悲しみに暮れ、帰りの近鉄電車は非情にも彼女の家の最寄駅を猛スピードで通過した。

長い一日はこれだけで終わらなかった。

夜10時近くだったか。一本の電話が鳴った。相手は一年先輩からだった。
「今ミナミにいるんやけど、ヤツが飲み過ぎで倒れた!手を貸して欲しい」と。

倒れたのはこのブログでもたびたび登場する「親友」で一番の飲み仲間であった。
当時まだ自分で車を運転できず、父親に頼んで車を出して貰い、現場に急行した。

すると道頓堀の相生橋の上に倒れ込む親友と佇む先輩、側に飲み屋の姉ちゃんが介抱する姿があった。
ほぼ意識不明の重体状態で話しかけても反応はない。
とにかく先輩と二人で担いで父親の待つ車まで搬送した。
その後先輩の下宿まで送り届けたという顛末だった。

かなり肉体的、精神的にダメージを食らっていた。

疲労困憊して自宅に帰った時は零時も過ぎ、推定8月29日になっていた。
もう訳がわからなくなり、クラシックでも聴きたい気分になっていた。
何故かは解らない。
音楽教師の訃報からか、何かに導かれるようにショパンの曲を聴き、気を落ち着かせていた。


レコードのジャケットに書かれていた彼の生涯に目が止まった。
素晴らしい楽曲を遺す一方で、三度の激しい恋に振り回され心身を壊し、僅か39年の生涯を閉じるのであった。
何より彼も悲しい恋の犠牲者だった。性格上、まさに草食男子的な振る舞いにシンパシーを感じてならなかった。
特に初恋のエピソードには自身の姿を重ね合わせ、あぁショパンと同じ運命を辿るのか…と妙な感情が大きな溜め息とともに出た。
彼はそんな心情をピアノに乗せる事ができた。
芸術的才能はないが何故か共感したのだ。

後に太宰治の「人間失格」を読む機会があり、また何かに導かれるように彼の生涯を調べていた。
奇しくも彼も39歳で自殺によって生涯を断っていた。

39歳
このキーワードが頭を離れない。
暗示をかけてはいけないが、自身が39歳になる2013年は、無事に年を越せるように精進したいものだ。
万一の事になれば、偉大な予言者として葬って呉れ!



あとがき(2024年5月のコメント)


今年の4月でめでたく50歳を迎えた。
アレから11年生き永らえている。
2013年も特に大きな出来事もなく平穏に過ごせたし、それ以降も一度転職という出来事があったほか幾度の小波乱を乗り越えた以外は、フツーに暮らせていた。

ただこの「運命の39歳」を過ぎたあたりから、毎朝起きたときに「今日も目覚めることができた。ありがたい事に今日も生きている」という意識が強くなったのは確かだ。

運命を悟った(ような気分になった)この日はまだ、例の恋患いで病んでる真っ最中で、会いたい会えない寂しい悲しいのルーティン底なし沼に浸かり、あり得ないことにワンチャン託してしまっているほどだ。
そこに追い討ちをかけるかの如く事件勃発。
思わず「なんて日だ!」と叫びたくもなる。

とは言うものの今日日、仕事上でも一日で突発的な事案が立て続けに舞い込むこと度々あり慣れてしまっているので、この日の事もそれほど大したことないように思えてきた。

この時は初めての経験だったろう、身体がついて行かないことを実感し、いつもは思い付きもしない「無性にクラシックが聴きたい」気分になる。手に取ったレコードはショパン集。
亡くなった音楽教師の導きだったんだろうか…

ネットからの引用になるがショパンの生涯、特に恋愛について記しておく。

ショパンの初恋は19歳の時。ワルシャワ音楽院の同学年で声楽科に通うポーランド娘のコンスタンチア・グワトコフスカでした。彼女の声は「天使の歌声」といわれ、その美しさと才能の崇拝者は数知れず。シャイで奥手なショパンは彼女に告白すらできなかったのですが、その想いは胸のうちだけに収めることができず、作品に昇華したといわれているのが初期の傑作である≪ピアノ協奏曲第2番≫です。ショパンは友人に「コンスタンチアを想いこのアダージョ(第2楽章)を書いた」と手紙を送っています。

(日本コロムビア「女子クラ部」ショパンの章より抜粋)

結局彼は彼女に想いを伝えることなくウィーンに旅立ってしまうのでした。

初恋は19歳……奥手なところも筆者と似たようなものだ。

音楽家としての将来を夢見て到着したウィーンですが、ウィンナー・ワルツ大流行の都では、ポーランドの田舎青年ショパンへの待遇は冷たいものでした。ウィーンをあきらめ、華やかな芸術の都パリを目指すことにしたショパン。その途上、ドイツのドレスデンでショパンはマリア・ヴォジンスカという幼なじみの少女に再会し、恋に堕ちます。マリア16歳、ショパン25歳の時です。この女性は育ちの良い両家の娘といったタイプでした。ショパンはマリアにプロポーズを申込み、マリア自身はこれを一旦受け入れますが、身分の差から彼女の両親からは反対に合ったといわれています。また、ショパンは結核を患っており、この恋で彼は著しく消耗し、かの有名な≪葬送行進曲≫が生まれたまでに憂鬱状態に陥ったりしたそうです。二人は相思相愛だったにも関わらず、結局は両親を納得させることもできずに、プロポーズは破談になってしまいました。愛おしいマリアに捧げた曲、それは今でもとりわけ人気の高い≪ワルツ第9番(別れのワルツ)≫となります。

(引用元同じ)

二度目の恋は成就したかに見え、それはもう激しい恋愛だったとの逸話も残っています。

しかし結末は悲しいモノで、しかも結核が彼の身体を蝕み始めたのでした。

そんな中、産み出されたのが「葬送行進曲」「別れのワルツ」だったんですね。


マリアとの恋に破れ、次に出会った女性は一風変わった男装の作家、ジョルジュ・サンド。彼女は一度離婚をした経験があり、その理由も結婚が退屈で多くの男性を弄んだといういわくつきの女性。病弱で純情なショパンと正反対なジョルジュ・サンド。一見不思議な組み合わせでも惹かれあうのが恋の不思議。サンドにはすでに二人のこどもがいたのですが、ショパンはサンドと二人のこどもたちとスペイン・マジョルカ島へ旅立ち、同棲生活を始めるに至りました。この恋は完全にサンドからの積極的な関係から始まったようで、彼女は献身的に病弱なショパンに尽くしたといわれています。しかし、結核によかれと思って訪れたマジョルカ島への逃避行だったのですが、運悪く気候が例年と異なり寒くてじめじめした環境の中で、一気に彼の病状は悪化してしまったといいます。結局フランスへ移動し、ショパンの病状も小康を取り戻し、サンドの経済力と献身的なケアに支えられ、ショパン後期の傑作が次々に生み出されることになります。≪ポロネーズ第5番嬰ヘ短調Op.44≫から≪ポロネーズ第7番 変イ長調Op.61「幻想」≫、そしてバラード第3番、第4番、スケルツォ第4番、幻想曲へ短調、バルカローレ、英雄ポロネーズ、ノクターン第13番、ピアノソナタ第3番、美しいマズルカの数々・・・サンドなくしてはこれらの傑作は決して聴くことはできなかったのではないでしょうか。しかし、こうした関係が続いたのは7年間ほどで、経済的にも破綻し始めたりサンドがショパンの才能を味わいつくしたのか、いつしか二人の関係は終わってしまいます。サンドと別れた後のショパンは創作活動が一切できなくなり、病状も悪化し39歳という若さで病死してしまいます。

(引用元同じ)

この恋は一風変わったもので、初対面で彼はサンドに対して酷い嫌悪感を友人に示したそうです。それでもお互いがわかりあえて恋愛関係に発展したのです。

実はサンドとの破局前後亡くなるまでの間、もう一人の女性との出逢いがありました。

ショパンがその最期の病床に駆け付けた女性がいました。その女性の名前はデルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人。絶世の美女と言われた女性。実は2番目のマリアに出会う前に、二人は友人として出会っていたようです。ポトツカ夫人は社交界のミューズであり、芸術家の取り巻きが数多くそばにいました。ショパンは夫人にピアノを教える友人として、20年間付き合ってきましたが、二人はサンドに隠れて友人を超える関係として逢瀬を重ねてきた、という噂もあります。ポトツカ夫人はサンドとはまた違う形で、ショパンを支えていた女性だとも言われており、ショパンは彼女のために≪ワルツ第6番(子犬のワルツ)≫をポトツカ夫人に捧げると楽譜の出版に際して記しています。

(引用元同じ)

正式な恋愛関係にはなかったようですが、愛人?というより彼にとっては心の支え、大切な人だったことは間違いなさそうです。


……当時、自身の恋愛事情に絡む焦燥感、徒労感からショパンの「恋バナ」に不思議な共感と同情の念を抱いたみたいだ。

共通点は「初恋の時のシャイで告白できない気の弱さ」ぐらいなものだが。

筆者もその後二度の恋愛を経て、三度目に所帯を持つようになり現在に至っている。

この先まだひと波乱あったりするのか?先の事はわからないのである。うん、わからない


一方の太宰治。正確には38歳で自ら命を断ち、遺体が見つかったのが39歳の誕生日である6月19日(桜桃忌)だったとの事。
彼の場合は芸妓と結婚したり私生活も波乱万丈であるが、4回にわたる自殺未遂と薬物中毒という部分が生涯の出来事として大きく占めている。
また彼も結核に冒されていた。
筆者と太宰の共通点はないが、彼の生涯を知るきっかけは偶然というか、何かに導かれるようだった。

筆者は昔から何かそういった偶然の一致とか、運命のいたずら的な何かを感じる力が人一倍強くて(半ばこじつけ的なものも含めて)不思議な縁とか、この人は運命の人だとか勝手に決めつけてしまう妙な癖がある。
偶然の一致……実はまだまだあったりするんですよね……

おっと、今日はここまで。