【執筆年月】2011年2月
1993年から1996年の出来事

大学の四年間(在学は五年だが…)、正味三年で色々な学内放送を担当させて貰った。

初めて受け持った番組は一年先輩の作で、これから運転免許を取得しようとする人向けの安全運転技術を紹介するものだった。
先輩の用意した原稿を読むのだが、いつも最後の一言だけアドリブで喋ってと言われていた。
本番直前までネタを繰り、まとめの一言や川柳を披露していたと記憶する。
一度だけこの今日の一言で歌を歌った回があった。
それも平山三紀の「真夏の出来事」という時代錯誤甚だしい選曲だ。
年配の教授ぐらいしか反応しねぇだろうというぶっ飛びセンス全開なネタをカマした。


他にも色々やった。
「雲」の形に焦点を当てたお天気歳時記的な物や、科学番組をエフェクターを駆使してロボットとお兄さんの一人二役で進行するものなどバラエティーに富むネタをやったものだ。
自らプロデュースしたものでは、言葉の語源を紹介する内容で、番組の前後に「仮想彼女」との会話仕立てで一人語りするという演出を試みたものがあった。
よっぽどコンプレックスを抱いていたのであろう。

中でも思い出深いのが、後輩の作でタイトルは「はいせんす通信」。
ブレイクしそうなちょっとコアなファッションや、独自の目線で流行りものを斬る番組だった。
スタジオの雰囲気も温かく、一番心地のよい番組だった。
先輩と「新世界紀行」と題して、大阪の新世界に取材した事もあった。コテコテのディープサウスを音声だけで伝えるというもの、串カツを揚げる音から、ガンマイクを指し「兄ちゃんそれ、バズーカ砲か?」と聞いてくるオッサンのエピソードまで、浪花の真髄を時間の限り紹介した。

あとは同期のドリームチームで制作した、体験レポートものだろうか。
コンセプトは、同期のなよっとしたF君を男にしよう、というもので学内の他団体に出向き、様々な体験をしようというものだ。
一番印象的だったのは落研の取材で、落研流の発声練習からネタ本の読み上げ、最後には拙作の創作落語まで披露する充実した内容に仕上がった。

色んな番組を担当し経験を積むと、段々自身のスタイルが確立するもので、一つの目標みたいなのが定まってきた。
今や全国区の顔、当時も関西の朝の顔で人気だった宮根誠司氏を目標にした。
特にMCでは参考にする事が多く、聞き上手で切り返しもうまく、適度なジョークで笑いも取る。
同じようには行かなかったが常に意識は持っていた。
これって誉め殺し?



あとがき(2024年4月のコメント)

中の人サイドで「定放」と呼んでいた定時放送、学内放送の思い出を綴っています。
定放デビューは安全運転のノウハウ紹介番組。
たまたまなんですが、今の勤め先で「安全運転委員会」というのに所属していて、社員に安全運転を説いている立場にいます。
直接役に立っているワケではありませんが、これも何かの縁なんでしょうかね…
締めの「きょうのひとこと」で何か歌う、というのは定放デビュー直後より周りから圧をかけられていて、いつ歌うの?いつ歌うの?と言われ続けていました。
なんでも、筆者入学前に定放で一曲カマした「伝説の局員」がいたそうで。
そしてついに…
最終回だかその前だかあたりで、この日のテーマが「運転上手な人を観察して真似てみる」的な感じで、助手席から動作や視線の動きなどをよく観察しようと結んだ。
そしてきょうのひとことが
彼のクルマに乗って♪」ドライブテクニックを盗みましょう。と。

自らプロデュースした、語源紹介(タイトルは失念)番組の構成ですが、イントロ部分とアウトロ部分を、その日紹介する言葉にちなんだ一人芝居で挟んでみたのです。
筆者が「バーチャル彼女」という空気に向かって語りかける感じで、彼女からの返しを妄想している「」の取り方が難しかった、という記憶がうっすら残っています。
当時の筆者の憧れの世界だったんでしょうね。
年齢=彼女イナイ歴 だったですから、せめて妄想だけでもさせてくれと中2病パワー全開で全館オンエア轟かせてました。

本文中でも最もスタジオの雰囲気が温かかったと述べている「はいせんす通信
確かオープニングにCorneliusの "Theme from First Question Award" が使われてて、いつだったかの放送で詳しい内容までは覚えていないが、アウトロのアドリブで「仲間が三人いると心強くて何でもできる」的な内容の例えで「ルパン・次元・五ェ門」とかドロンボー一味(ドロンジョ・ボヤッキー・トンズラー)を出した回がありました。
放送終わってからプロデューサー兼ミキサーの後輩から「さすがです!例えが」など、賞賛を受けて嬉しいやら照れくさいやら、こしょばーい気分になった記憶があります。
余談ですがCorneliusを知って、Flipper's Guitarにたどり着いて、一時期ネオアコとか渋谷系にハマって楽曲集めしていた頃がありました。


それから「新世界紀行」の思い出ですね。
オープニングテーマは服部克久氏の「自由の大地」からのキダ・タロー氏の曲に突然切り替わる(プロポーズ大作戦だったか?ラブアタックだったか?)というコテコテさで始まった60分番組。
先輩と通天閣界隈を練り歩き、街の音を拾いながら人情に触れあう。その模様や感想を音源を流しながら約1時間語りました。
取材は平日の昼間だったか(週末かもしれない)、今のように外国人だらけではなく、リアルなじゃりン子チエの世界。日雇い労働者風のオッサンやスられた直後の競艇場帰りの酒臭いオッサンたちで溢れていた。でも怖くはなかった、と記憶している。レイモンド飛田(地獄組のボス)みたいな人物はいなかった。
今はジャンジャン横丁も観光地化されて、コテコテにデフォルメされた看板や装飾があちこちに出されているが、当時は小さな地域の娯楽の場として昭和感溢れるノスタルジーなスポットであった。
50円のゲーセンは健在でしたが。

体験レポートものはタイトルが「今、君にできること」だったか?
これはプロデューサー兼ディレクターとミキサー、出演者が筆者とアナウンス部F君の4人、全員同期のドリームチームでした。
まあ例えるなら筆者はミスター役。F君が大泉洋氏の役回りで、Dはもちろん藤村氏。Mはうれしーという構成。
1996年の話で、当時北海道ローカルだったあの番組の事を知る術もなく、今思えば偶然コンセプトがシンクロしてたのかと思ってしまいます。無論、サイコロ振って深夜バス乗ったり、ユーコン川を下ったり、オーストラリア大陸3,700kmを縦断したりはしませんでしたが。
初めの頃は、体力を身に付けようということで体育会系の部室にお邪魔して、トレーニング体験をするという企画でした。
音声メディアのみだったため「アッー」とか「ハァハァ」とかしか録れず、延々喘ぎ声を聞かされるという羽目になったことを覚えています。
他にも主に学内のクラブ取材がメインだったですが、本文中でも取り上げた落研取材が最も印象的でした。
これは感性を磨く、みたいな趣旨で日常の練習シーンにお邪魔させて頂きました。
発声練習は我々アナウンス部も行っていることで基礎的な部分は共通項もあって難なくついて行けました。
筆者もそれまでの落研さんの取材を通じてなど、少しばかりは落語の蘊蓄や興味もあったりしたので、落研流発声練習のそれぞれの意味など理解しながら臨みました。
ネタ本は内輪でホッタンと呼ばれている「東の旅 発端
ようよう上がりました私が初席一番叟、で始まるこのネタに叩きなど、落語の所作の基本が詰まっているのだとかで、入門者はまずこのネタを叩き込まれるそうです。
アナウンサーが滑舌と表現力を養うために、
拙者親方と申すは、と外郎売りをするように。
そうした基礎練習を一通り体験した後フリートークの時間を頂き、部長さんへのインタビューや体験入部の感想などを語り合いました。
その話の流れで、チョッと聞いてもらっていいですか?と筆者が切り出し、小噺を作ってみたので披露したいと出たのです。
要約すると、ドライブしてました。高速道路走ってました。渋滞に捕まりました。ノロノロ運転でした。
で、全然高速で走られてへんやん、と振りがあってからの「コーソクだけに拘束されてます」でサゲる。というもの。
これに上下をつけて落語っぽくやってみたりしました。とても貴重な体験で、話し方、表現力のバリエーションが増え、上下をつけるとか扇子などの小道具を使うとかについては今でも時々何かの機会に使わせてもらっているぐらい役に立っています。

放送局での色んなアナウンス活動や取材活動を通じて、見たことのない景色をたくさん見させてもらいました。
そうした体験の中から導き出された一つの結論、一つのスタイル、一つの目標として宮根さんの名前が出てきたのです。
その当時はABC朝日放送の局アナで「おはよう朝日です」のメインMCを担当。
本文執筆当時はすでにフリーになっていて「情報ライブ ミヤネ屋」もスタートしていました。
本文中の印象は主に毎朝「おは朝」を視ていた感想だと思います。後年、人の話を聞かないとか、話を途中で遮って言いたい事を一方的に話すとか、傲慢だとか悪い評判が立ってしまいましたが、当時から進行の巧みさであったり、機転を利かせた立ち回りであったり、(当時は)相手の発言を拾ってうまく返したり、相手の話しやすいように持っていったり、テレビを視ながらそういうところばっかり気にしつつ、あんな風になれたらいいなと憧れていました。

その憧れから30年…
直接仕事に活かされてはいないが、コミュニケーションの場では少しでも役に立っている、と思っています。
心の片隅のどこかに「ABC時代のミヤネさん」が居てるのかもしれませんね。