【執筆年月】2011年2月
1993年から1994年の出来事

暫く放送局員当時の話を続ける。

毎年11月の初めには、3日間の大学祭期間に入り、キャンパスが熱気に包まれる。
我が放送局も夏前から準備が始まっていた。

具体的に大学祭期間は、他団体主催イベントのPA(音響)協力がほとんどで、アナウンス部員は後夜祭のイベントに影アナとして出演するというのがある。
そして放送局が主催するステージイベントの準備が大変なのである。

まず実行委員会の立ち上げから始まり、イベントのタイトルを決める段から侃々諤々の議論が起こり、保守派革新派の対立が発生する。
次にコーナー分けをするのか、コーナーの数はいくつにするのか、何をするのか等詳細を詰め、班分けをする。
班分けをしたら、その中の役割分担を決め、いよいよ実務的な準備が始まる。

各コーナーの準備の他に実行委員会内の役割分担も決められ、宣伝委員を務める事になった。
ビラの作成や配布を仕切る係だ。

一年目は表舞台に立つことはなかったが、黒衣として舞台下手を出入りしながら、先輩のMCっぷりを学習したりした。

イベント内のコーナーは「クイズ」を希望し、担当した。
問題の作成から、段取り、小道具の製作まで一つの手作りイベントを作り上げていった。
プロの真似事と言えばそれまでだが、当時はプロ並みに仕上がったなんていう自負さえ感じていたものだ。

初めてのイベントを終えた後は、もちろん達成感と感動はあったが、疲れの方が勝っていた。
本番直前まで準備に追われ、先輩からの檄とも取れる厳しい叱責にも耐え、トランス状態で迎えた本番。
ホッとしたというのが正直な感想だった。


二年目もクイズ担当で、この時はコーナーMCという大役を仰せつかった。
予選会の敗者復活戦からの登場となるのだが、登場の仕方が寒かった。
化学科の先輩に白衣を借り
敗者の味方、歯医者さん!
と絶叫しての登場だった。
見事にスベった。

その後はメイン会場に移動し、メインMCと絡んだあと、クイズ本戦をつつがなく進行する。
サブMCの後輩と「クイーズ」なんてコンビ名もつけたが、これもスベった。
だが、終わったあとの充実感は前年の比じゃなかった。

三年目はMCといったメインどころではなく、パフォーマーとしての出演だった。
サブ会場からメイン会場に舞台を移すインターバルの時間を利用して、懐かしのパフォーマンスを同期の4人で行うことになったのだ。
この続きは次の機会にお話ししよう。



あとがき(2024年4月のコメント)

主に大学祭イベントの苦労話を綴っております。青春してますよねー
スポーツじゃないんだけど、チームプレイの醍醐味を味わえた思い出のひとつです。

とにかく企画から準備までが大変で、学業の傍ら台本作りは勿論のこと、小道具の製作からMCの練習まで連日連夜、あとは本文中にある通りの悪戦苦闘が続いた。
我々アナウンス部員は「体調管理」を理由に夜10時で強制帰宅させられたが、本番間近になると制作・技術部員は連日泊まりで準備に当たっていた(その輪の中に入れなかったのはちょっぴり寂しかったけど)。

10月後半。秋の夜風に肌寒さが加わり、キンモクセイの香りとともにピンと張りつめた重い空気が漂って来る。
今でもこの時期、肌寒さが到来すると得体の知れないヒリヒリしたモノを感じることがある。

本文中で一つだけ記憶違いしている箇所があるようだ。
「一年目は表舞台に立つことなかった」と記しているが、発見した当時の写真によるとどうやらクイズ予選会のコーナーMCのみ担当しているようだ。
全館OAには乗らなかったと思うが、○✕クイズのMCを今はなき本館横スペースで行っている(タスキには「本日の主役」、ハチマキはおそらく「ジャストミート」←福澤朗アナのノリ)。

二年目の「歯医者さん」では一年後輩が予選会進行の役目を務め、予選通過者が確定したタイミングで「ちょっと待ったぁ!」と筆者が登場し、寒いやり取りを経て敗者復活戦を執り行う筋書きだった。
たぶんこの辺の筋書きは筆者が案を出したと記憶している。そのセンスからして。

そのセンス、といえばコーナータイトルも筆者の発案で「史上最大!第427回 言語道断ヒルからクイズ!
アメリカ横断ウルトラクイズを無理矢理パロった苦し紛れのネーミングでした。
この427という数字「氏にな(敢えてこの表現)」に通じて縁起悪いという声もありましたが、この由来について。
誰も知らないようですが、黄色い看板の某薬局チェーン創業当時の目標店舗数だったそうです。その当時の薬局薬店の全国店舗数が約42,700店舗だったので、その 1%に当たる 427を目標にしたとか。
その目標を達成したため、次の目標として
代表が象の背中に乗って「目標!1,327店!」というCMが誕生したそうです。
4を1と3に分けた、って完全に話が脱線してますね(笑)


予選通過者と敗者復活者によるクイズ本選をメインステージ(アプリコットプラザと呼ばれていた。通称「アプラ」)で行った。
後輩の予選MCからバトンを受けて、本選の進行を筆者が行う。
クイズの出題内容は、予選も含めてクイズスタッフを中心としたほぼ全局員で出し合ったが、イントロ当てクイズだけはほぼ筆者の独壇場
当時流行りの曲から、ニッチすぎるもの(当時我々はそういうのを総称して「ヨゴレ」と呼んでいたが、ヨゴレの定義は奥深く難しい)まで、集めたモノを技術部の先輩に出題用に編集してもらい、本番に備えた。
そう、筆者はヨゴレ担当でもあったのだ。

大学祭前に学内放送(定時放送)の枠を使ってイベントの15秒コマーシャルを流すというのがあって、セリフの内容までは記憶から消去されているが「昔俺が○○(イベント名だったかコーナー名だったか……)だった頃、兄貴は✕✕だった。お袋が△△で、親父は▲▲(ここにオチが来る)だった。わっかるかなぁ、わかんねぇだろうナ」というのをやった。
平成初期の20歳前後が集うキャンパスに轟く松鶴家千とせ。わっかんねぇに決まってるだろ、イェーイ!
これぞ筆者が「ヨゴレ」と呼ばれる由縁だ。

今回は二年目のイベント話まで。
三年目はステージ上でそのヨゴレの真骨頂を披露することに……
同期を巻き込んで。