【執筆年月】2011年1月
1998年3月の出来事

3月の函館は雪が相当残っていた。
まさか雪景色の北海道まで来るとは正直思わなかった。

ここで本日の段取りをと時刻表を開く。が、どうやっても明日に大阪に帰る手立てがない…事に気づいた。
せめて小樽まででも…と思ったが、函館発日本海4号大阪行には間に合わない。
振り向かない旅もここまで。函館をゴールとした。

この日3月13日は青函トンネル開業からちょうど10年を迎え、駅では盛大なセレモニーが催されていた。
偶然にもこんな場に遭遇できた事はツいていた。
思いがけないサプライズに頬が緩んだ。


この日は半日函館を満喫しようと、五稜郭や倉庫街、函館山近くを精力的に回った。


市場にも足を運び、ありとあらゆる海の幸を買い漁った。
お金の事は気にしない。何故なら後悔したくないから…
振り向かない旅はここに発揮され、バイトで貯めたお金をすっかり使い果たしていた。
後の東京での浪費癖はこの時始まっていたのか…

市場での移動中、雪に足を取られ転倒。膝を思い切り強打した。
痛む膝をさすりながら、思い残しはないか自問自答した。
函館との――この旅との別れの時間が迫ってくる…

明日には自宅に帰っているだろう自分宛てに手紙も書いた。内容までは覚えていないが、自問自答した事を綴ったように思う。
そして、この旅が生涯記憶に残りますように…と。


時間が来た。
この列車に乗れば明日の朝には大阪だ。
4日かけてはるばる来た函館も、明日は大阪だ。

発車ベルが別れを惜しむように、けたたましく鳴っている。
日本海4号はそろりと函館駅を後にした。
青函トンネルまでの道のりは長い。長いが、もう少し北海道にいたい。
そう思ううちに車窓は真っ暗に、ゴーという音だけが心に響いた。

青森からは来た道と逆方向、日本海周りで弘前に向かう。
眠ってはもったいないと思い、少しでも車窓を目に焼き付けていた。
が、少し眠っていたようだ。

気がつけば富山まで来ていた。
眠気と戦いつつ、金沢芦原温泉福井と過ぎていく。
敦賀を過ぎると近畿圏だ。
白々と明ける琵琶湖の広さに、今更ながら感嘆し京都へ。
見慣れた風景も、数日ぶりの再会に、少しだけ違って見えたものだった。
山崎から高槻茨木とだんだん大阪に近づく。
新大阪を出て、降りる支度を始めた。

終わった…
長い旅が今、幕を閉じた。
生涯忘れないと誓った旅は13年経った今でも鮮明に記憶に残る。
痛む膝の記憶とともに…



あとがき (2024年3月のコメント)

5枚綴りの18きっぷの旅、大阪から函館まで辿り着くことができました。
そして帰りは、今はなき寝台特急日本海4号で無事に大阪へ帰ることができました。
振り向かない旅はここに完結。

長いブルトレの歴史の中で、乗車歴はこの時含めて生涯2回だけで、いずれも函館発大阪行の日本海4号でした(あと1回は高校の修学旅行の帰り)。
おそらく24系25型の、何両目か忘れたが(たぶん中間車)B寝台の最上段(2段か3段か忘れた)だった。
ご多分に漏れず寝床は窮屈で、足元に荷物を置くとその分身体可動域も狭まり、寝返りを打つのがやっと。しかも窓が上の隅っこぐらいしか届いてなくて、車窓も満足に楽しめない。
ひたすら黙って寝てろ、と言わんばかりではあるが、そんな中でもラジオCM録音体制を整えてちゃっかり「自分の城」を築き上げてましたね。
夜が明けてからは寝台を降りて、通路側の補助椅子に腰掛けて、湖西線からの琵琶湖の車窓を眺めていましたよ。
(B寝台の通路側の補助椅子って何だか旅館の和室にある、障子で仕切られた窓側の小さなスペース「広縁」っぽくて好き)
現代ではサンライズやプレミアム列車でしか味わえない「動くホテル」の旅。
(B寝台はさながら動くカプセルホテルだけど)
今なら糸魚川から敦賀まで北陸新幹線が通ってるルートだし、函館からなら新函館北斗から東京、東京から新大阪まで新幹線を乗り継いで日中に帰れる。時代は変わったものだ。
それでも4日という日数をかけてたどり着いた函館から、たった一夜で大阪まで帰っちゃうのだから夜行寝台はスゴくもあり有り難い。

時を同じくして北海道では、ハチャメチャな旅を企画、実行する男たちがいた。
筆者と同じ誕生日で一つ年上の、今や名優と呼ばれる大泉洋氏を含む四人組「水曜どうでしょう」班のことである。
1998年3月当時オンエアでは「東京ウォーカー」だったが、恐らくその後のオンエアから推測するとマレーシアで虎とシカを見間違えた頃ではないだろうか…
つまり筆者が函館に着いた時には、彼らは北海道にいなかったと。


函館の朝市では、ここで人生終わらせてもいいって勢いで毛ガニ、ウニ、筋子などありとあらゆる海鮮モノを買ってはクール便で送っていた。

実はこの函館もラブライブ!サンシャイン!!に大きく関係しており、AqoursのライバルユニットSaint Snowの聖地なのである。

だからできればまた、行きたいなと思っている場所の一つであることは間違いない。
物語にも登場した金森赤レンガ倉庫函館区旧公会堂などには訪れているが、こんどは茶房 菊泉(鹿角姉妹の実家モデル)や、ラッキーピエロにも行ってみたい。

果南ちゃんが「はぐぅ~」ってなった五稜郭タワー、訪れた当時は改装工事中で周囲に足場が組まれてましたなぁ……



さて本文で綴った「自分宛の手紙」。
文中では内容を覚えていないと記しているが、その手紙(正確には絵はがき)を実家にて発見し、今も手元に保管している。
裏面は五稜郭の航空写真、この当時は50円切手で送れたんですね。しっかりと函館中央郵便局の消印が押されていました。


(原文ママ)「前略
その後、大阪での生活はいかがですか?
悔いのない旅ができましたか?
お金は大丈夫ですか?
4月からの新しい生活、自信はありますか?

からだ大丈夫ですか?
痛めたひざはどうですか?
そちらはもう暖かくなりだしたでしょう。
寒の戻りには充分注意してください。

これで17年の学生生活に終止符を打ちます」

書き出しはまるで、さだまさしさんの案山子のようである。
学生の筆者から社会人の筆者に宛てたメッセージで、後戻りできない寂しさと未知なる社会人生活への不安と覚悟がひしひしと感じられる…と客観的に思ってしまいました。

そしてそれから26年経った今でも、古傷の左膝が時々痛くなることがある。
左膝がズキズキと疼き出したとき、この一人旅のことと函館朝市の一件を思い出すのである。
(長期連載企画第2弾 完)