1995年4月23日(死亡時刻は4月24日の午前2時~3時頃)に起こった オウム真理教上層幹部 村井秀夫 刺殺事件から27年の月日が経過した。当時のことを振り返って書いた記事を掲載させて頂く。



 この記事を読まれた方には既にお分かりかと思うが、私(筆者)は村井秀夫刺殺事件の真相について、村井自身が殺人に見せかけた自殺を行った可能性に言及している。他には例がない見解であると自負するが、もちろん事実とは限らないことはこの記事でも注釈を入れた通りである。


 しかし最近になって、中川智正(元死刑囚)の裁判法廷での証言を、資料として提示して下さる方が現れたため、もちろん断定までするのは不可能だが、村井秀夫が自ら手配した〝他殺に見せかけた自殺〞の可能性が、若干だが見えてきたと感じているので今回記事にすることにした次第である。


提示して頂いた資料 

 

 Twitterにて天奉院章姫(@tenhouinakihime)というハンドルネームの方からの情報を得た。掲載許可も頂いたので、Twitterをお持ちの方はこのツイートの前後も閲覧して確認できる。〝オウム法廷〞という裁判傍聴記録を書籍の形にまとめたもので、第13巻は主に中川智正(元死刑囚)の裁判での証言を記録したものである。


 その中の155ページから161ページにかけて中川被告証言により、村井秀夫が刺される場面をテレビで〝その時に〞見ていたことや、その時に自分が感じたことなどを述べている部分がある。もしこの書籍を入手された方がいたら是非とも読んでみて頂きたい。


 頂いた資料(先程のTwitterの続き)を掲載する。











 私(筆者)は『村井秀夫の最期』については自分の感覚のみで記事を書いていた。しかし、教団存続が危機に立たされた責任を村井秀夫が麻原から追及されていたことなどは全く知らず、テレビ報道での映像と自分の信者としての経験(特に4月23日の村井秀夫に呼び出され話をした時の村井の態度様子など)から、その日にいきなり〝殺された〞ことには大きな違和感があったのはこうしたことが原因だったのかと最近は考えるようになった。


 これらの詳細については後日改めて記事にすることにして、今回は中川智正の法廷証言があったという事実を述べるにとどめたい。







 私が強調しておきたいことは


 〝オウム真理教とは・・・麻原が言ったことを何でもやってしまおうとする教団〞


であるということだ。


 教団の存続を危機に至らせる強制捜査が始まった責任を麻原から追及され、麻原の四女の書籍には村井秀夫がポアを言い渡されていたと記されている。それが本当の話なら村井秀夫は真剣に自分のポア、即ち他殺と見せかける自殺を考え実行に至ったとしても何ら矛盾はない。


 また警察は教団関係者 特に村井以外の幹部(例えば上祐など)による内部犯行を相当疑い捜査したものの決定的な証拠をつかめなかった。しかし村井秀夫 本人が企てた見せかけの自殺を疑って捜査したという記録はないのではないだろうか?


 なぜなら偽装他殺(即ち自殺)だとすると、殺人の捜査員の仕事ではないことになるため、そのような方針を立てるのは困難だろうから。


 また人が変死すれば通常は自殺と他殺の両面から捜査するものだが、村井秀夫の場合は刺される場面がテレビに映っている状態だったため、それをいきなり〝他殺演出の自殺〞とは疑いにくいことも理由に加わると私(筆者)は考える。


 以前の記事にも書いたが、オウム真理教が大掛かりな装置を購入する時や土地を取得する時、正々堂々と「オウム真理教でーす」などとは絶対に名乗らない。


・・AさんからBさん、BさんからCさん、

Cさんから一般人に成りすました教団関係者Dさん、

Dさんから教団在家信徒Eさん、Eさんから教団に・・


といった具合で極めて巧妙狡猾に取得するのが常だ。従ってもし村井秀夫が自分で手配して自分の殺害を依頼するなら、全く同様に自分及び教団の足跡を消すやり方をするはずである。


 それは事件当初からそのような疑いを持って捜査するのでなければ到底解明できるものではないだろう。27年という年月が経った現在その足跡をたどるのはもはや不可能となってしまったと見る。しかし中川智正の法廷での証言は抹消されない限り記録として残る。中川も事件当初から私と同じことを感じていたのだ。


 『村井秀夫の最期』の記事の最後に


〝私(筆者)には村井秀夫の人格の正確なところはわからないままになってしまっている〞


と書いたが、飽くまでも〝もし本当ならば〞という前提ではあるものの、かなり近づいた思いがする。村井はやはり麻原の忠実な奴隷である!




 最後にもう一度言う、


オウム真理教とは麻原が言ったことを何でもやってしまおうとする教団である。


このことは私(筆者)だけの独断ではないと言って良いと考える。