久しくブログ更新間隔が空いてしまったことをお詫びしたい。

 実は私(筆者)の母が先月体調を悪化させ、つい最近まで約1ヶ月入院していた。何とか退院したものの自力では歩行困難なため、介護のサービスを受けるための手続きや話し合いなどをしていた。また今後も継続し考えていかなくてはならないが、一応見通しが立ったのでブログを再開できるようになった。

 私(筆者)はこれまでオウム真理教の信者としての経験や考えを書いてきた。しかし前回までの数回の記事で述べた私(筆者)自身の逮捕を契機として、事件の真相を知り教団からの脱会・決別に向かうこととなる。それらのことを書く前に幾つか書き落としていた広瀬健一から受けた指示などについて今回は書いておきたい。


広瀬健一からの指示
その 1. 出張命令

1994年10月始め頃、幕張メッセで行われた

〝日本真空産業展
  (現在の名称はVACUUM2020真空展)〞

に参加してマグネトロンについての資料を集めてくるように、と私(筆者)は広瀬健一から出張命令を受けた。前日に教団の南青山総本部に行きソーパーカ師の許可を得て1泊してから行くように指示された。

 当日は多くの会社の展示からマグネトロンを扱っている会社を探しだし、資料・カタログなどを集めたが、マグネトロンについての詳しい話を聞こうとすると、どの会社も非常に強く警戒し何も話さなくなった。結局資料を集めただけに終わったが、そのことを広瀬に報告すると以外にも満足げな表情だった。



その 2. 焼き入れ部品の大量製造

 1995年の年明けから、前回までの記事に書いている私(筆者)が逮捕された際の証拠となった長さが約30㎝の丸棒の焼き入れが、それまでのペースの数倍で製造するように指示されたことがあった。

 その際「信者SKに作業を手伝わせる」と広瀬健一からの連絡があった。信者SKは体格が良く力仕事は何でもやってくれた。またかなりの種類の工具も使える技術を持っていたので、これも助かった。

 横山真人(ヴァジラヴァッリヤ師長)の作成した電気炉でこれまでは1,2本づつ焼き入れをしていたが、品質を確保しながらも一気に 5本まで1回で焼き入れができるように処理治具を改良してくれた。焼き入れ作業は二人で交代で昼夜問わず行ってノルマを達成した。

 しかし、それは私(筆者)も信者SKも知らされていなかった自動小銃の大量製造の一環だった訳である。

 また、その 1.の出張命令では、広瀬健一は最初からマグネトロン製造のノウハウを会社が明かすことなどは期待しておらず、資料さえ集まれば充分と考えていたものと思われる。

 即ちこれは私(筆者)が高温でのロウ付け技術を完成させた後のMPプロジェクト構想の参考という位置付けだったのではないかと考えている。

※私(筆者)が高温でのロウ付け技術を完成すればマグネトロンの出力系の完成はほぼ間近となる。あとは動力系と装置全体像のイメージを得るために会社のカタログなどの資料が参考になるのだ。


《余談》
 MPプロジェクトの始まりは、1994年 3月に村井秀夫の指示により、私(筆者)が広瀬健一の部下となって間もなく電気炉の設計図面を書いた後、その図面を見せた時、チーム名記入欄に〝MP〞と書くように広瀬健一から

「チーム名 MPね。MPプロジェクトだから。」

と指定されたことが最初だった。以後物品購入の予算を申請する際にもチーム名記入欄には〝MP〞と記入して申請するようになったが、そのMPプロジェクトの申請はすべて通り、却下されたことはただの1度もなかった。即ちこれは村井秀夫のお墨付きを得ていた肝入りの計画だったことになる。


 どちらにしてもこれらのことが高レベルで完成していたら大変なことになっていたと言える。



 時間を元に戻す。逮捕勾留されていた私(筆者)は、当然起訴されるものと思い込んでいたが予想に反して釈放となり、家族との再開をした。しかし自宅に久しぶりに帰った私(筆者)の気持ちは複雑だった。地下鉄サリン事件が教団が犯したものである事実はもはや疑いようもないことは理解した。そして広瀬健一の自供通りなら広瀬健一はその実行犯の一人であり、その部下の私(筆者)は何も知らずに教団の味方をしたことになる。

 信じ難いが事実である。事件に直接関わる寸前で教団から離れた安堵感と、これまでの、教団を信じて、教祖麻原を信じて、村井秀夫や広瀬健一らを信じて行ってきたことの虚しさが心の中で交互に繰り返された。

 
 そんな中、自宅に戻って2,3日後だった。警察の人から連絡があり、私(筆者)に話を聞きたいということで訪ねてくる事になった。以後頻繁に面会が行われることになる。