1995年 7月15日 私(筆者)は前回記事の通り、教団第8サティアンでの強制捜査で武器等製造法違反の容疑で逮捕された。その後の出来事を記憶をたどって書いていく。 

 
《弁録(べんろく)の聴取》 
 逮捕後護送された私(筆者)は、浅草(あさくさ)警察署に拘留されることとなった。夕方に護送車から降ろされた後、写真や指紋などをとられ、夜19:00ぐらいから弁録(上申書のことをこのように呼ぶらしい)の聴取を受けた。容疑について聞かれたが、もちろん私(筆者)は 

 「そのようなことはありません」 

と、はっきり答えた。黙秘のことなど忘れていた。相当頭が混乱していたからだと思っている。また供述調書には(一般の供述調書と弁録の)2種類があるのだ、ということを私(筆者)はこの時初めて知った。 

その日はそれで終わり、留置場に入ることとなった。

        部屋番号は102。

これ以後留置場ではすべて、名前ではなくこの番号で呼ばれる生活を送ることになったのであった。



 《点呼、朝食》
  留置場の朝は早い。 6:30に起床して寝具を片付けるため、一旦各自たたんだ布団を持って部屋を出される。それを共通の押し入れにしまい込み、その後洗面と歯磨きをする。部屋に戻ったら番号で呼ばれ返事をして点呼は終了となる。

  朝食は平均的に 8:00前後には出されていたと思う。特に不味いということもなく過ごせた。


 《運動》
 〝運動の時間〞になると、その階の留置人(10人前後だった)は全員部屋から出され、小さなベランダに集められる。

  2日に1回の割合で髭剃り(電動式シェーバー)が渡され、髭を剃っても良いことになっていた。それが運動ということらしい。 

 髭を剃らない日は、私(筆者)以外のほとんどの者は、ただタバコを吸うのみだった。それが運動の時間の過ごし方だった。

  勾留が始まって数日後その運動の時間に、決して自分からは言わなかったにも関わらず、私(筆者)がオウム真理教の信者だということが発覚してしまった。その階の留置人の中のリーダー格の者に訪ねられた。

 リーダー格:「お前の上司は誰だ?」

   私(筆者) :  「刺されて死んだ人です」

 リーダー格:「村井先生か!」


留置人の間では村井秀夫は〝先生〞と呼ばれていたことを私(筆者)はこの時初めて知った。

 ※現在では私(筆者)は〝先生〞などと村井秀夫を呼ぶつもりは毛頭ないが、この時点ではまだ村井に対する(誤った)尊敬の念は抜けていなかったため悪い気はしなかった。

  これらの決まったルーティーンの後、取り調べのある場合は留置場の出口(留置場と警察署を分ける扉)から出される直前に、手錠をかけられ取調室に向かう。取り調べのない日は特にすることもないので、留置場の部屋でダラダラと過ごすことになる。

 《入浴》 
 風呂に入れる日は1週間に1~2日、二人でペアになり交代で入っていた。




 《取り調べ初日》 
 私(筆者)の逮捕の理由は、取り調べ担当の刑事(K警部補)から最初の取り調べの時に告げられた。

  そしてこれは宗教弾圧でも不当な逮捕でもないということを一生懸命に強調しているようだった。最初にイメージしていた激しい暴行や恫喝などは全くなかったため、どちらかというと拍子抜けした感じが強かった。というのも相当丁寧な応対だったことに好印象を受けたほどだったのである。

  前回の記事で述べた〝証拠物件〞の自動小銃の銃身とおぼしき物が私(筆者)の前に提示され、これを第9サティアンから押収したことなどを説明してくれた。 

 私(筆者)はそれは私(筆者)が送付した物に間違いはないが、私(筆者)が送付した時点では穴は空いておらず、黒染めの加工もされてはいなかったことを説明した。 

  また広瀬健一はこの部品をコスモクリーナーのシャフトに使うと言っていたこともあわせて説明した。以外にすんなりと理解してもらえたと思う。 

  それから一つ一つ時系列をたどるようにして、細かく質問されたことに答えるということが続いた。

 

《送検の手続き》
  最初の取り調べを受けた次の日(だったと思う)、私(筆者)の身柄は検察庁に送られた。ここでも認否の確認が行われ、当然私(筆者)は否認した。しかし全く無視されたかのような形で勾留が許可されることとなった。

 
 送検に関するネット記事を読むと、
〝被疑者は逮捕から48時間以内に、警察から検察庁へ連行されますが、被疑者一人を何人もの警察官が取り囲んで検察庁へ連れて行くケースは、その事件がよほど世間の注目を集めているときだけです。〞

 とあるが、私(筆者)は私(筆者)一人に対して警官3人に連行されて送検されたので、やはりかなりの注目度があったのだろうと思う。

 
 この送検の手続きは逮捕後10日目頃にもう一度行われ、さらに続いて勾留延長も認められた。

  不思議なのだが、この検察庁の検事による取り調べでも刑事の取り調べと同様のことが、始めから非常に丁寧に行われた。

即ち私(筆者)には刑事と検事の双方から同じ内容の取り調べが、手を変え品を変え行われた訳である。



《取り調べ2日目以降》
  取り調べ官のK警部補は、この道28年のベテランだった。しかし偉そうな感じは全くなく、こういう場所で会うのでなければ良き友人と言っても良いぐらいの人だった。

  一方で検事取り調べを担当したO検事は理詰めで冷静な人で、私(筆者)が何気なく話した言葉も、逃さず不審点を追及されたことを思い出す。

  何日か続けて刑事取り調べがあった後、検事取り調べが1回あるといったペースで取り調べは進んでいった。どちらかというと刑事取り調べの方では事実関係を詳細に調べ、検事取り調べの方では私(筆者)の入信の動機や理由、また武器製造と認識していたかといった、精神的な面を詳しく追及していたと思う。

 
 この時点で私(筆者)の1つの誤解がようやく解けた。不当な逮捕や宗教弾圧などではない、私(筆者)は広瀬健一や横山真人そして大元の村井秀夫に騙されていたのだ。その時には全く気づかず、逮捕され理由を説明されてようやく気がつく!これぞまさしくさらなる繰り返しの〝知らぬが仏〞だった。



  しかしそれには理由もある。


で述べた 信者Sがずっと清流精舎に来て処理を続けていれば、勘の鈍い私(筆者)でもこれは怪しいと気がついていたと思う。ところが信者Sが清流精舎で処理を行ったのはこの時の1回だけであった。

  なぜか?この出来事があった後(1994年の年末から1995年の年明け頃)に広瀬健一が私(筆者)の作製した電気炉の内部を指差してこう言った。

 「これを同じようにもう1つ作って欲しい」

 即ち炉心部分の電熱線を埋め込む〝セラミック製の断熱ブロック〞をもう1つ作るように私(筆者)に指示を出した。すぐに取りかかり約1週間で


に書いた作り方で完成させ、それを第9サティアンに送った。

  何をするかはすぐに分かった。同じような電気炉を第9サティアンにも作ろうとしているのだ。また広瀬健一に車での送迎を指示され1度だけ第9サティアンに立ち入り、その電気炉の配線作業を手伝ったこともある。

 ※1度信者Sに作業させて処理した部品が十分な評価を得たために、毎回清流精舎で作業するよりも第9サティアンに新しく電気炉を作る方が効率が良く、また実は武器を作っているという秘密も守られ易いと考えたのに違いない。しかし当時の私(筆者)は「武器を作っているのでは?」などという想像を全くしていなかったため、このカラクリに気付かなかったのだ。 


 
 捜査取り調べが進展していくにつれ、重点は事実確認よりも私(筆者)自身の心情へと移っていった。即ち〝武器を作るということを認識していたか否か?〞を言い方は適切かわからないが、ネチネチと質問を変えながら追及されていったのである。 



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