つい最近に「黒い司法~0%からの奇跡~」という映画を見に行った。予告編を見た時から見に行こうと決めていて。とてもよかった。
しかし、感想を書く前に1つ気になったことを、それは「黒い司法」という邦題についてで、映画を見る前はなにも思わなかったけど、映画を見終わった後はすこし引っかかる。
この映画の原題は”Just Mercy”で日本の邦題は原題の訳ではなく映画の内容からとったものだと思われるが、僕はどうもこの原題が気になる。もちろんこの”黒い司法”の”黒い”という言葉は1988年のアメリカの死刑制度並びに司法の崩壊と、その犠牲となった黒人の肌の色を示したダブルミーニングになっているのだろう。しかし映画を見終わってみると、僕は”黒い”という言葉に「悪」と「黒人」の意味を重ねることに違和感を感じざるを得ない。この映画は長年アメリカで続いていた黒人差別からの司法の開放を訴えるものであり、その真意を邦題は十分にくみ取れていないと思うからだ。この映画の舞台となっている1988年のアメリカでは、黒人というだけで死刑になってしまう。そこには黒人と悪を結び付ける非常に差別的で、非論理的な考えが社会の根底に横たわっているからであり、この映画の主人公は弁護士という立場を生かし、この考えを変えることに一生を捧げた。エンディングでは実際の写真とともに、観客への強いメッセージが示される。
この映画の意図を、邦題を作った人は理解しきれていないんじゃないかと思った。自分なら原題”Just Mercy”のままにしたと思う。
まあ、邦題への文句はこれくらいにして、これから感想を書きたいと思う。
一番印象に残っているシーンは中盤の死刑のところだ。これまでに映像としてみたことがなかったからかなりショッキングだった。
特に死刑囚の
「生まれて初めてだよ、こんなに丁寧に扱われたのは」
という言葉にその時代の黒人のつらい境遇が表れていて、鮮明に記憶に残っている。
約8分くらいだろうか、中々の長尺が費やされるシーンだったので何か重要な意味が込められていると思い、後々考えた結果。
自分には、観客に、死刑の持つ恐ろしさや異様さを見せその恐怖に晒されていた当時の黒人達への想像を促す意図があると思えた。
日本は死刑があり世界的に見ると少数派の国だ。
しかし、その日本に住んでいても、当然というべきか、死刑は身近に感じるものではない。
その非現実的な死刑というものを、見ている者の、近くに持ってきて黒人達への感情移入を強く促すという意味で、とても効果的なシーンだったと思う。
実際このシーンをきっかけに、登場人物の何人かは大きく考え方が変わり、それが物語を動かしていくのだが、このシーンのおかげで自分もそれぞれの心情の変化を自然に追っていくことができた。
この映画の根幹にあるもの、それは「想像力」だと考えた。
終盤の裁判のシーンで、主人公は白人の裁判官に“正義”を問う。
正義に関しては様々な本が出ているようにとても難しいものであり、様々な考え方があるが、この映画は
””正義は想像力によってもたらされる”
という正義に対しての一つの答えを示しているように感じた。
それまで、嘘の証言で自分のためだけに行動していた白人の男が法廷で真実を語った。
それは、子持ちの自分と同じように死刑囚になっている黒人の男にも子供が、愛する人がいる自分と何ら変わらない人なのだと相手のことを想像できたからだった。
町の為なら黒人に何をしてもよいと考えていた相手の検事は自分の発言が未来に及ぼす影響を想像することができたから、最終的には起訴を取り下げるという判断を下す。
誰かにとっての正義は誰かにとっての不正義かもしれない、という言葉が象徴するように、とっても捉えずらい正義という概念。
それにこの映画は想像力で挑む。
物事を主観的でなく、様々な角度から想像することによってのみ、正義が現れるんじゃないか。
この映画は過去のアメリカを描いたものだけど。
今、誰もがネットで(自分の)正義を振りかざせてしまう時代を生きる人たちにこそ、必要な示唆を与えてくれるものだった。