ご訪問頂きありがとうございます。


今日は休日で、足底板をつくるため

に病院に測定にきています。

待合室で昨日のゆかさんブログを読

み返しながら、ふと自分が一片の

存在だと感じた事がある事を思いだ

していました。


それは学生時代、怪我で長期入院し

た時。友達は皆学校に通っていて、

わたしは寝たきりのベッドから鏡越

しに窓の外を眺めている。わたしに

とっての世界は丸い手鏡の中に映っ

た窓の外の景色が全てでした。

その時の疎外感。世界から一人弾き

出されたような孤独感。わたしがい

ようといまいと、世界では朝がきて、

昼になりまた夜をむかえる。


見方によれば社会化の枠から強制的

に外された、チャンス到来だったか

もしれませんがそんな事はその時に

は知る由もなく、ただちっぽけな

一片の存在である事を心のどこかで

感じていたように思います。


この感覚は、サラリーマンから独立

して自分でやりはじめた時にも感じ

た事がありました。世の中は皆働い

ています。社会化の枠から外れ自分

でやる事を選択した時の時間の在り

方はまさしく自分次第で、疎外感と

孤独感の中で、社会化の枠に嵌まら

ずも、社会に参加していくように

必死でもがいていました。

世の中はわたしがいようがいまいが

淡々と存在を続けている。わたしは

一片の存在として、世界の役割の

一つであろうとしていました。


「一片の役割」の使い方はちょっと

違っていますが、社会の流れから

外れた時の疎外感や孤独感を通して

自分もまた何かの役割を担っていた

いし、そして何かの役割があるのだ

と思ったりしたものでした。


大宇宙の理の中で何かしらの役割を

もつ、といった壮大な観点がその

当時にあった訳ではありません。

ただ「歯車の一つ」で終わりたくな

いといった反骨精神のもとに、社会

の流れから外れ、疎外感、孤独感と

ともに、立ち向かいながらもどこか

で全体の歯車の一つである事がわか

っていたように思います。


歯車の一つである事はダメな事、

情けない事であるといった無知な幼

さから、今ようやく「一片の役割」

を担っている素晴らしさや大切さを

感じられるようになってきました。


昨日のゆかさんブログの中で、

「協働共存」なくしては何も創れぬ

存在なのです。

とありました。まさしく一人では何

も為し得ない。この事を深く捉えて

いかなければなりません。


病院の待合室でそんな過去の体験と

感覚を思い起こしながら、ゆっくり

と拝読していました。


一片の役割に思いをやりながら、

同じ時代に生きて、今を創っている

協働者とともにこの世界を創る。

全員と顔見知りになる事はないです

が、これまでに関わりを持った協働

者や、名前も顔も知らない世界の向

こうの協働者とともに、今の世界を

創る一片の役割を自覚して、やる事

をやっていこう。あらためてそう思

いました。


明日から8月に入ります。今年も残り

5カ月。酷暑は続きますが、今やるべ

き事をやっていきましょう。


今日もお読み頂きありがとうございま

したm(_ _)m