今年の日曜学校では、旧約聖書を学んでいます。
今週は23章「主が常にあなたとわたしとの間におられます」でした。
サムエル記上18~20章;23~24章

サムエル記上18:1~5     サウルはダビデに好意的
サムエル記上18:6~9      女たちの言葉に怒り、ダビデに対して嫉妬、妬み、憎しみ

「ねたみ」や「高慢」「競争心」は
   私達の霊性にどんな影響を与えるか?

エズラ・タフト・ベンソン大管長は次のように話しています。

「サウルがダビデの敵になったのも、高慢のゆえでした。イスラエルの女たちが次のように歌うのを聞いて嫉妬したのです。
[サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した。] サムエル記上18:6~8

 高慢な人は、神の裁きよりも、人にどう思われるかを恐れます。
 「神にどう思われるか」よりも、「人にどう思われるか」の方が重要なことなのです。
 人にどう思われるかを恐れる人は、人の称賛を求めて争うようになります。
 高慢な人は、「神のほまれよりも、人のほまれを好む」のです。(ヨハネ12:42-43)
 どのような動機で行動するかによって、罪かどうかが決まってくるのです。
  イエスは、「わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしている」と言われました。(ヨハネ8:29)
  わたしたちは、人にまさることや勝つことではなく、神の御心にかなうことをしたいという動機で行動すべきではないでしょうか。
 
  高慢な人の中には、自分の収入が生活の必要を満たしているかどうかよりも、ほかの人よりも多いかどうかということに気を取られている人がいます。
  このような人が望む報酬は、人より上に立つことです。

  高慢な思いにとらわれると、この世的なものに、縛られ、人にどう思われるかを恐れて自由を失ってしまうようになります。
  世の声は御霊のささやきよりもはるかに大きいものです。
  そして、人の理論は神の啓示を押しのけ、高慢な人は鉄の棒から離れて行くのです。」(「高ぶりを心せよ」聖徒の道1989年7月号)


サムエル記上23:12~-13
サウルはダビデ一人を殺すために、ケイラの住民全部を滅ぼそうとします。

ねたみや高慢から怒りや憎しみへと悪循環になります。
怒りは自分自身を傷つけます。
罪の奴隷、怒りの奴隷など、奴隷の状態から回避するには、イエスキリストの贖いの力が必要です。
イエスキリストの贖いの力によって、平安や自由を得ます。